自然環境が激変、人間は死に絶えるのか? 滅びる運命の中、人はいかに生きるのか? 普段どおりの生活を続ける者、新興宗教に救いを求める者、微かな生存に望みを託す者、いっそ鮮やかな死を望む者、そして――。
平成版『日本沈没』として話題沸騰中の、『人類滅亡小説』。『嫌われ松子の一生』『百年法』などで知られる小説家、山田宗樹さんの渾身作です。今回は特別に、物語の序盤を少しだけお届けします。
家族
デイルームに先客はいなかった。飲料水の自動販売機と、古い雑誌やコミックの詰まった本棚、そして四人掛けの丸テーブルが三脚。南側に大きく開いた窓の向こうでは、木の枝が風に揺れ、黄緑色の葉を煌めかせている。泥っぽく濁った目に、この世界はどう映っているのだろう。
吉井沙梨奈は、車いすを窓に近いテーブルに着け、タイヤをロックしてから、自動販売機でいつものやつを買った。焦げ茶色のガラス瓶に入った、昔ながらの栄養ドリンクだ。栓をあけて差し出すと、祖父が無言で受け取り、一口一口、時間をかけて飲む。最後の一滴を啜ってから、空になった瓶をテーブルに置いた。
「あたしね」
沙梨奈はいった。
「死ぬの、延期することにした」
深く皺の刻まれた浅黒い顔は、表情を作る筋肉が干からびてしまったかのように、ぴくりともしない。ときどき瞬きをするだけの目も、どこを見ているのかわからない。
「コロニー雲……って知るわけないか」
スマホに画像を呼び出し、祖父に見せる。
「この赤い雲のせいで人類が滅亡するんだって」
祖父がようやく画面に目を向ける。が、それ以上の反応を期待しても無駄だった。
「どっちにしろ、じいちゃんには関係ないね」
スマホをもどす。
「まあ、あたしにも関係ないといえばないんだけど」
笑いかけたが、祖父は無表情のまま。
「でも、なんか、気が楽になったんだよね」
沙梨奈はしゃべり続ける。これほど気兼ねなくしゃべれる相手は祖父だけだ。
「二百年後には、お金持ちも、貧乏な人も、強い人も、弱い人も、健康な人も、病気の人も、友だちの多い人も、ひとりぼっちの人も、戦争ばっかりやってる国も、平和な国も、みんな無くなる。ぜーんぶ、なかったことになる。これって、すっごく素敵なことだと思わない?」
「真智子が来た。きのう」
いきなり祖父がいった。
「弁当を持ってきた」
「いっしょに食べたの?」
沙梨奈は穏やかに問いかける。
「あいつは食べんかった。わしだけ食べた」
「おいしかった?」
「うまかった、うまかった」
「……よかったね」
真智子というのは、沙梨奈の母だ。祖父にとっては一人娘になる。だが、実際に母が弁当を持って祖父の元を訪れたのは、三十年前だ。まだ母が中学生だったころ、祖父が交通事故で怪我を負って入院した。命に別状はなかったが、病院の食事が不味いとこぼしたので、母はわざわざ弁当をつくって見舞いに行った。祖父はたいそう喜んで食べたという。ふだんは突き放すように祖父のことを話す母も、そのエピソードを教えてくれたときだけは、いつもと違う感情に揺さぶられているように見えた。
「部屋に、もどろか」
沙梨奈は腰を上げ、栄養ドリンクの瓶をゴミ箱に捨ててから、車いすの後ろに回ってタイヤのロックを外した。
祖父の入所している有料老人ホーム〈あけぼのハウス〉から、見和希市の自宅マンションまで、自転車で一時間以上かかる。路線バスもあるが、バス代がもったいないので使わない。それに高校へも自転車通学しているせいか、自転車で遠出するのは苦にならない。
「じいちゃん、どうだった」
キッチンをのぞくと、香織が立ったまま牛乳を飲んでいた。
「いつもと同じ」
沙梨奈も冷蔵庫から清涼飲料水のペットボトルを取り、自分のコップに注いで飲む。コップは軽く水洗いして食卓に置いておく。どうせまた後で使う。
香織はまだ牛乳を飲み終えていない。マグカップを両手で持ち、なにかいいたそうな目で沙梨奈を見ている。
「なに」
「べつに」
沙梨奈は自分の部屋に入った。正確には、香織と二人で使っている部屋だ。沙梨奈が妹と母と暮らすこの2LDKのマンションは、母がまだ二十代のころに買ったものだった。ローンは払い終えている。母の職業はセールスレディで、各種保険から浄水器に至るまで、売れるものならなんでも売ってきた。土日祝日に仕事するのは当たり前。休むときは一カ月くらいまとめて休む。そういう生き方をしながら沙梨奈と香織を育て上げた人だ。
香織のデスクライトが点けっぱなしになっていた。机の上には、分厚い数学の問題集と、文字や数式が整然と書き込まれたノートが広げてある。図形の証明問題に取り組んでいるところらしいが、高校二年の沙梨奈にも解けそうにない問題ばかりだった。
香織は来春、県内トップクラスの進学校を受験することになっている。香織なら合格するだろう。成績が良いだけでなく、見た目も抜群に可愛くて、アイドルグループのセンターだって務められそうだ。実際、噂を聞きつけた芸能事務所のスカウトに、塾の帰りを待ち伏せされ、警察に通報する騒ぎになったこともある。姉妹でどうしてこんなに違うのだろう、とは思わない。違って当たり前なのだ。父親が違うのだから。
「前から聞こうと思ってたんだけど」
香織が部屋にもどってくるなり、いった。
「なんで毎週あんな遠いところまで行くの? せっかくの日曜日なのに」
「だって、お母さんもぜんぜん会いに行ってあげないし」
「じいちゃん、頭が呆けて、沙梨奈のこともわからないんでしょ。意味ないじゃん」
「意味はあるよ」
「どんな」
「……暇つぶし」
香織が白けた顔をした。
「沙梨奈はいいね。気楽で」
そっけなくいって机に着き、シャープペンシルを握った。ほんの数秒、問題文と向き合ってから、解答をすらすらとノートに書き込んでいく。
「ねえ、香織」
「なに」
シャーペンを持つ手は動き続けている。
「コロニー雲って知ってる?」
「細菌が繁殖して赤く発色してる雲ね。それがどうかした」
「コロニー雲のせいで人類が滅亡するって信じる?」
「噓に決まってる」
「……なんでそう言い切れるの?」
「あれって二百年後の話でしょ。そんな先のことが簡単に予測できるはずがない」
沙梨奈は、自分でも気づかぬうちに、香織の横顔を睨みつけていた。
「でも清々しない?」
香織が手を止めた。
振り向く。
「なにが」
「だから、人類が滅亡すること」
「なんでそれが清々するわけ」
「……なんとなく」
「ほんとになったら、どうするの」
「え……」
「そんなこといってて、ほんとに人類が滅亡しちゃったら、どうするつもり」
香織に正面から見据えられると、いつも身のすくむ思いがする。おまえは生きる価値のないクズだ、と宣告されている気分になる。
「コロニー雲のせいで人がたくさん死んで、泣き叫ぶ声が世界中に満ちあふれても、清々する、なんて言い方できる?」
「…………」
香織が、視線を外して、ふたたび問題集に向かう。
「そういうことは軽々しく口にしちゃだめなんだよ」