自然環境が激変、人間は死に絶えるのか? 滅びる運命の中、人はいかに生きるのか? 普段どおりの生活を続ける者、新興宗教に救いを求める者、微かな生存に望みを託す者、いっそ鮮やかな死を望む者、そして――。
平成版『日本沈没』として話題沸騰中の、『人類滅亡小説』。『嫌われ松子の一生』『百年法』などで知られる小説家、山田宗樹さんの渾身作です。今回は特別に、物語の序盤を少しだけお届けします。
#5
「昨夜の雨、ひどかったからなあ」
助手席の池辺太志が外を眺めていった。眼前に広がる水田では倒伏した稲が水に浸り、護岸工事を終えたばかりの運河にも泥色の水が膨れ上がっている。
「雷も凄かったですもんね」
沢田剛は軽ワンボックスカーのハンドルを切り、運河に沿って左折した。
「そうそう。子供が怖がってさあ、一人で眠れないから一緒に寝てくれって泣きついてきたよ」
「潤太くん、小学生でしたっけ」
「一年生。生意気になったと思ってたら、まだかわいいとこあるよな」
「いっしょに寝てあげたんですか」
「まさか。ここぞと父親の威厳を発揮したね。おまえは男の子なんだし、自分の部屋で一人で寝ろ。こっちにもベッドが二つしかないから二人しか寝られないって」
「へえ」
「そしたらおれが寝室から追い出された」
「発揮してないじゃないすか」
剛は笑いながら車を端に寄せて停めた。
「しょうがないだろ。嫁さんがそうしろっていうんだから。逆らえないよ」
車から降りてドアを閉める。息を吸うと水蒸気をたっぷり含んだ空気が肺に入ってきた。空にはまだ黒灰色の積雲が厚く垂れ込めている。遠くで甲高いエンジン音が聞こえた。彼方に築かれた堤防の上を、軽トラックが一台、猛スピードで走っていった。
「ええと、第七観測点。百九十センチで警戒水位以下。その他、異常なし」
池辺が、運河に設置してある水位計を読んで告げる。それを剛がタブレット型デバイスに入力し、さらにカメラ機能を使ってクリークの様子を撮影する。
「よし、次」
見和希市役所のクリーク課は、農地を走る用水路の整備と管理を担当する部署だ。市内のクリーク網は、幅が十メートルほどの運河と、運河から出て隅々まで張り巡らされる幅二メートルの水路で構成されている。降雨量が基準値を超えた翌日には、こうしてクリーク全路を見回ることになっていた。
「それはそうとさ」
車が動きだすと同時に、池辺がおしゃべりを再開する。
「こないだ話してた彼女、結局、東京で就職しちゃったの?」
「もういいっすよ、そのことは」
剛は思わず顔を背けた。
「おお、おお、かわいそうに。早く新しい相手を見つけて結婚しちゃえ」
「そんな簡単に見つかりませんって」
「いまでも公務員は、結婚相手としちゃけっこう人気あるんだぞ」
「あんまり実感ないですけどね」
「だれか紹介してやろうか」
「ほんとにいいすから」
続いて第八観測点にも異常は認められない。しかし、クリークの様子を撮影し終えたとき、ぞくりとするものを感じて背後を振り返った。
数百メートルほど先に、電波中継塔が聳えている。鉄骨を黒く染め上げている物体はカラスだ。しかし、剛をぞくりとさせたのはカラスの群ではない。その上空にあった。
「どうした」
「また出てますよ」
低く浮かぶ積雲の一つが、赤黒く発色していたのだ。
「うわあ、ほんとだ」
池辺が両手を腰に当てて見上げる。
「さっきまでなかったよな。いつの間に……」
「最近、よく見ますよね」
コロニー雲の目撃例は日を追うごとに増え、例の人類滅亡説のこともあって不安を訴える声が広がり、ついには国会でも野党が政府に質すまでになった。政府はそのときの答弁で、ただちに害を及ぼすものではない、との見解を示している。
「しっかし、きょうのはまた気味の悪い色してやがんなあ。でかいし」
「何回見ても気持ちのいいもんじゃないすね」
「まったくだ」
池辺が視線をもどして笑いかける。
剛も肩をすくめてみせた。
「じゃ、次行くか」
「はい」
運転席に収まりエンジンをかけようとしたところで気づいた。
池辺が車に乗ってこない。ドアに手をかけたまま、空に目を眇めている。
「行かないんですか」
「あ、ああ……」
我に返ったように瞬きをした。
「あの赤い雲だけどさ」
また空を見上げる。
「下がってきてないか」