カジノに入れ込み、注ぎ込んだカネの総額106億8000万円。一部上場企業・大王製紙創業家に生まれ、会長の職にありながら、なぜ男は子会社から莫大な資金を借り入れ、カネの沼にはまり込んだのか……。
大王製紙前会長、井川意高氏の『熔ける』は、ギャンブルで身を滅ぼし、塀の中に堕ちた男の壮絶な告白本だ。「カジノ法案」が成立し、遠くない未来、日本にもカジノが誕生するであろう今だからこそ読みたい本書。一部を抜粋してお送りします。
名だたる経営者たちと銀座で……
「井川は学生時代から、銀座の高級クラブや祇園のお茶屋に毎日通い詰めていた」
私の巨額借り入れ金問題が世間を騒がせていたころ、そんな報道がずいぶん流れた。「毎日通い詰めていた」というほどの頻度ではなかったが、この報道はあながち間違ってはいない。私が銀座デビューしたのは、大学に受かった年の春休みのことだ。高校3年生の私を、父が銀座の高級クラブに連れていった。晴れて東大に合格した私を祝うと同時に、一人の大人と認める“元服式”がわりだったのだと思う。
その店で出会った「しょうこ」という女の子がとても印象的だった。その子は私と同い歳であり、慶應大学と早稲田大学を受験したものの、両方とも落ちてしまった。これから1年間予備校生活を送るにあたり、ホステスとして学費を自分で稼ぐのだという。あとから聞いたところによると、どうやらその子は作家の渡辺淳一先生の小説でモデルにされるほど人気があったらしい。歳も近い彼女と話をしていると、自分とは別の世界で生きている人々が存在するという当たり前の事実が、新鮮味をもって感じられた。
東大に入学してからも、父は時々、私を銀座の店に連れていってくれた。いずれ経営者になるであろうことを見越したうえで、同席させていたのだと思う。父は大学生の私に、経営者としての“帝王学”を施し始めた。酒席での交流を通じて、財界の名だたる経営者に次々と私を紹介してくれたのだ。
当時、父と親しい人々はある茶道のお家元を囲む茶会に参加していた。若輩の私もそこに混ぜていただき、個人的にお茶を習っていた。茶会が終わると皆で料亭に食事に出かけ、そのまま高級クラブへ飲みに流れる。
ワコール2代目の塚本能交社長、中山製鋼所3代目の中山雄治社長、作家の小池一夫先生や東映の渡邊亮徳副社長など、錚々たる大先輩にかわいがっていただいた。
父は仕事を第一に優先する人間のため、ベロベロになるまで飲んだくれることはない。夜11時にもなると引きあげ、いつまでも長っ尻で飲み続けるわけではなかった。夜11時に引きあげるとなると、まだまだ飲みたりない他のメンバーたちからブーイングが出てしまう。
「今つかまっていて、ちっとも帰してくれん。お前、今からこっちに来てくれないか」
そんなふうに呼び出しを食らうことがしょっちゅうあった。私は大学の授業にさほど熱心になるはずもなく、かといってアルバイトで忙しいわけでもない。サークルでゴルフやヨットを適度に楽しみながら、いたって暇な学生生活を送っていた。お安い御用だと、父からの呼び出しにはいつも二つ返事で応じた。
高級クラブに出向くと、父はまわりの人たちと物騒な会話をしている。
「井川さん、よろしいんですね、かわりに人質をもらって」
「ああ。もう煮て食うなり焼いて食うなり、好きにしてください」
当時は銀座の店が夜12時くらいには閉まったため、そこから六本木のゲイバーなどに繰り出してずいぶん飲まされた。
学生だからといって、飲み会の支払いを全部ごちそうになっていたわけではない。父からは常々、自分が飲んだぶんくらいは自分で払うように言われていた。大学に入った当時から、私は井川家のファミリー企業の役員に就いて株式を所有していた。学生の身分でありながら、そこそこの交際費を使える立場ではあったため、おごられっぱなしになることなく、自分の飲み代は自分で支払った。
こうした交遊を指して「井川は学生時代から銀座に入り浸って豪遊していた」というような話が広まっていったのだろう。もし嫌味に聞こえてしまったら申し訳ないが、ある程度の企業の創業家子息ならば、こうした夜のつきあいは当然のことだ。父にとっても私にとっても、経営者たちとの銀座での交遊は仕事の延長線上だった。夜の社交界で築いた人間関係が、のちのち思わぬ潤滑油となってビジネスに役立っていくのだ。