妻が逝き、友が逝き…それでも人生の旅路は終わらない。一度きりの人生、ここで弱ってどうする男たちよ。
臨床歴50年以上の現役医師が綴った『孤独は男の勲章だ』では、死ぬまで精力を保ち続ける極意を患者さんのエピソードとともに紹介しています。人生100年時代を生き抜くための必読書から、一部を抜粋してご紹介します。
今回は、愛した妻を亡くした一之助さんのお話。独りきりになりすっかり弱っていましたが、息子のあるアドバイスで活気を取り戻します。
私の知人のSさんの父親、一之助さんは、80歳の時に5つ違いの妻を失いました。長く勤めていた役所を定年退職した後、一軒家で妻と二人の生活を楽しんできただけに、そのショックは計り知れないほど大きなものでした。
妻は2人の息子を育て上げ、結婚以来まったく病気とは縁のないほど元気だったのですが、最期は実にあっけない天国への旅立ちでした。友人たちと旅行に行き帰宅したその夜、入浴中に倒れ、病院に運ばれましたが意識を取り戻すことはありませんでした。死因はくも膜下出血でした。
こんなことになるのなら、もうすこし妻の体を気遣い、一緒にかかりつけ医を持って健康に気を付ければよかったと悔やみましたが、後の祭りです。
すでに同年配の友人たちも、一人二人と櫛の歯が欠けるように亡くなっていて、妻だけが心の支えになっていただけに、その孤独感は想像以上に強いものでした。
「本当に寂しくなったなあ。一緒に飲んだり、遊んだりしてくれる友人もいなくなって、ついに女房まで俺を置いて逝ってしまった。長生きなんかするもんじゃないよ」とよくボヤいていたようです。
その落胆ぶりを心配して毎日のように訪ねてくるSさんの顔を見るたびに「死にたい、死にたい」と訴えます。妻の死後ひと月経ってもふた月経っても、Sさんと顔を合わせるたびにそんな言葉を繰り返すし、食事も喉を通りません。
そこで、思い悩んだSさんが、私のところに相談に来ました。
「それはいけないよ。そんな状態が続いていると後追い死をしかねないから、早く一人ぼっちの生活を止やめさせなきゃダメだよ」
そう私が忠告すると、彼は深刻な顔をして頷きました。
「ええ。父は80歳ですからね。あんなにしょげ返って、食事もほとんど口にしていないようですから。先生のおっしゃる通り、危ないと思います。どうしたらいいのでしょうか?」
「実はね、そう難しいことじゃない。まず長男のあなたが、お父さんを外に連れだして気晴らしをさせなさい。外食を楽しみ、ドライブを楽しみ、少々の酒を飲ませる。一番重要なのは、話し相手の女性を侍らせることだ。これらはすべて、孤独死を防ぐための特効薬なんだよ」
「ちょ、ちょっと待ってください先生! それ、本気でおっしゃってるんですか? 80の父に、女は無理でしょう」
彼は目を瞬しばたたかせながら身を乗り出すようにして私の顔を見ています。
かまわず私は続けました。
「いや、孤独から脱出するのに酒と女は不可欠だ。一度、診療所に連れていらっしゃい、私から説得してみるよ」
「いやぁ、女ですか……」
そう首をかしげながら、その日、Sさんは帰っていきました。
「お前、そんな医者にかかってるのか!」
息子の話を聞いた父親は、信じられないという顔で言いました。
「そんなヤブとはさっさと縁を切れ! 外食はともかく、酒と女を年寄りに勧めるなんて言語道断、そんな医者の言うことを信じちゃダメだ」
「お父さん、先生は気晴らしが大事だということを言っているんですよ。引きこもっていると必ずよくないことが起こるからと、心配してくれているんです。確かにお父さんは昔から真面目一方な人だから、酒も女も事故はないし……」
そこでSさんは、目を輝かせて言いました。
「そうだお父さん! カラオケにしよう。そういえばずいぶん聞いてないけど、昔、詩吟や謡曲を習っていたことがあったじゃないの。俺、覚えてるよ。よく子供のころ、家の中で唸っていたの。今でも歌えるんじゃない?」
詩吟、と聞いて一瞬、父親の顔に光が差しました。
「そりゃあ、昔はずいぶん熱を入れて練習したから、忘れるわけないさ」
「そうそう、お父さんの十八番(おはこ)、また聞きたいな」
「おお、そうか」
そう言って父親は、得意然とした顔で歌い始めました。
〽鞭声(べんせい)粛粛(しゅくしゅく)夜河を過(わた)る 暁に見る千兵の 大牙を擁するを 遺恨なり十年……
声を張り上げる父親に、息子は手が赤くなるほど拍手を送りました。そしてこの息子の閃ひらめきが、父親のその後の孤独生活を救うことになったのです。
2人は週に2、3回、父親の住む家の近くのスナックに出掛けるようになりました。若いころ喉を鍛えた父親は、カラオケで歌わせても、店に来ている他の客たちを驚かせるくらいの歌声でした。中でも、三橋美智也の『古城』を歌い始めると、客たちの間から、「日本一!」と声がかかるほどです。スナックでは、やがて“古城の一之助”というあだ名が付き、すっかり有名人になりました。
「一之助さん、CD出しましょうよ。こんな素敵な歌、聞いたことがないわ。きっと三橋美智也さんが生きていたら、もう、一之助さんを抱きしめて喜ぶと思うの。そしてきっと、一番弟子にしてくれたと思うわ」
そう店のママにおだてられて、一之助さんはますます絶好調でマイクを握りしめています。その人気はうなぎ登りに上昇し、若い女性からもデュエットを申し込まれ、照れながら上機嫌で歌っています。
それから16年、一之助さんは今年96歳を迎えました。
歌声にはますます磨きがかかり、プロと言っても疑う人は一人もいません。歌を録音したテープが、いつも店のカウンターに積んであります。今やスナック専属の歌手、いや、客たちは歌の先生として彼を慕っています。
そして今も、信じられないほど若々しい96歳の歌声が、スナックの店内に響いています。まさに歌が、最愛の妻を失った孤独感から、一六年もの間、一之助さんを救い続けてきたのです。
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