恋も仕事も順調だった三一歳の怜子は、五年付き合い、結婚も考えていた耕一郎から突然別れを告げられる。失恋を受け入れられず、苦しむ怜子は、最優先してきた仕事も手に付かず、体調を崩し、精神的にも混乱する。そして、友人の「好意」から耕一郎に関するある事を知らされた怜子は…。絶望から再生までを描き、誰もが深く共感できる失恋小説
恋も仕事も順調だった三一歳の怜子は、五年付き合い、結婚も考えていた耕一郎から突然別れを告げられる。失恋を受け入れられず、苦しむ怜子は、最優先してきた仕事も手に付かず、体調を崩し、精神的にも混乱する。そして、友人の「好意」から耕一郎に関するある事を知らされた怜子は……。
絶望から再生までを描き、誰もが深く共感できる失恋小説。唯川恵さんのロングセラー『燃えつきるまで』を、冒頭から一部ご紹介します。
不倫中の友人。恋の相談なんて、喋りたいだけ
「結婚したいわけじゃないのよ」
と、美穂は言った。
週末の、夜の十一時過ぎ、少し酔った美穂からの電話は、たぶん覚悟をつけなければならないくらい長くなる。
「ごめん、途中でキャッチが入るかもしれないの」
耕一郎でなかったことにがっかりしながら、怜子は答えた。
細く開けたベランダのガラス戸から、湿った雨の匂いが流れ込んでいる。夕方からぽつりぽつりと降り始めたのが、どうやら本降りになってきたようだ。
「彼?」
「まあね」
「そう、その時は気にしないで切っていいから」
「うん、それで?」
「だから、私は別に結婚を望んでるわけじゃないのよ。ただ、彼に私と同じ立場になって欲しいだけなの」
美穂は三年ほど前から不倫の相手と別れたりくっついたりしていた。
出会った頃、美穂は我を失ったようにその恋に夢中になった。彼の方も、たぶん同じ思いだったのだろう。
私たち、結婚するわ。もう奥さんとはずっと前から夫婦とは呼べない関係だったの。彼も私と出会ったことで決心がついたって。ただ彼には子供がひとりいるの。小学一年の女の子よ。子供はやっぱり可愛いらしくて、結局、今まで離婚に踏み切れないのはその子のことだけが理由だったのよ。
私は引き取っても構わないって思ってる。だって彼の子供だもの、きっと可愛がれるわ。もし奥さんが手放したくないならそれでもいいわ。養育費はちゃんと払うつもりよ。私だって働いてるんだし、それくらい何とかなるわ。今時、離婚なんてめずらしいことでも何でもないんだもの、後はタイミングの問題なの。
そう言ってから三年がたつ。状況は何ひとつ変わっていない。変わったことがあるとすれば、かつては男が常軌を逸しているのではないかと思うくらい美穂に執着していたが、今は美穂がそうなっている、ということだ。
「何があったの?」
「この間の連休、家族旅行だったんですって」
「ああ」
いつもそうだ。前に似たような電話があったのはお正月休みの時だった。その前は九月の連休で、その前は夏休みだった。
「東北の方を車で回って、温泉に泊まってきたんですって」
怜子は返す言葉が見つからない。
それよりも、キャッチが入らないかとそればかり考えている。
「仕方ないって思ってるわ。奥さんとは冷えきってても、子供のためにはやっぱり旅行ぐらいしてあげなくちゃね」
「そうね」
「子供に罪はないんだもの」
「やっぱり離婚は難しいの?」
「奥さんが意地になってるみたい。別れて、自分より先に夫に幸せになられるのが我慢できないのよ。早い話、嫌がらせ。そんなことして、奥さん自身、自己嫌悪に陥らないのかしら。私だったら、自分から気持ちが離れている男にすがりつくような真似は絶対にしないわ」
そんなことを言っているが、一年ほど前、男から別れ話を持ち出された時、美穂は狂ったように泣いて引き止めたではないか。後になって「あれは彼をそこまで追い詰めた私が悪かったの」と、美穂は言っていたが、怜子には言い訳としか聞こえなかった。
「それで、どうするの?」
美穂が長い長いため息をつく。
「そろそろ潮時かもしれないなって思ってるの。このままじゃ埒があかないもの。私だって幸せになりたいわ。だから、今度こそ別れようかって思ってる」
何度、このセリフを聞いただろう。そうして早い時には二日後に、長くてもひと月後には「そのつもりだったんだけど」と諦めたようなそれでいてどこか浮き立った声で報告してくる。
以前は、その変わり身に呆れ、反発を覚えて非難めいたセリフを口にしたこともある。でも今は何も言わない。恋愛なんて、当事者以外の誰も立ち入ることはできない。もう女子高生じゃない。恋の相談なんて何の意味もない。ただ、美穂は喋りたいだけだ。そうして怜子は聞いてあげるだけだ。
結局、一時間以上、電話に付き合わされた。
「怜子はどう? うまくいってる?」
最後になって、ついでのように美穂が尋ねた。
「もちろん、と言いたいところだけど、実は危機を迎えてるわ」
「あら」
短い返事のニュアンスの中に、同情と好奇心とがないまぜになっている。
「ケンカでもしたの?」
「まあ、そんなとこ」
「ケンカできるうちが花よ」
常套句を美穂は言う。
「でも、こんな大きなケンカは初めてよ」
別れを切り出された、とはさすがに言えなかった。
「だから、電話を待ってるのね」
「まあ、そういうこと」
「あ」
と、美穂が弾んだ声を上げた。
「私の方がキャッチだわ」
「きっと彼ね」
「どうだか。でも、ごめんね、じゃあこれで」
美穂がいそいそと電話を切る。何だか打ち負かされたような気になって、怜子は受話器をベッドの上に投げ出した。
不倫という先の見えない恋に振り回されている美穂に、ずっとどこか同情のようなものを感じていた。それに較べて、自分は幸せだと安心していた。けれど、もうそんなことは言ってられない。もしかしたら、耕一郎はもう連絡をよこすつもりなどないのかもしれない。
(続く)