恋も仕事も順調だった三一歳の怜子は、五年付き合い、結婚も考えていた耕一郎から突然別れを告げられる。失恋を受け入れられず、苦しむ怜子は、最優先してきた仕事も手に付かず、体調を崩し、精神的にも混乱する。そして、友人の「好意」から耕一郎に関するある事を知らされた怜子は…。絶望から再生までを描き、誰もが深く共感できる失恋小説
恋も仕事も順調だった三一歳の怜子は、五年付き合い、結婚も考えていた耕一郎から突然別れを告げられる。失恋を受け入れられず、苦しむ怜子は、最優先してきた仕事も手に付かず、体調を崩し、精神的にも混乱する。そして、友人の「好意」から耕一郎に関するある事を知らされた怜子は……。
絶望から再生までを描き、誰もが深く共感できる失恋小説。唯川恵さんのロングセラー『燃えつきるまで』を、冒頭から一部ご紹介します。
このまま待っているだけなんて。決意の電話
あれから三週間近くたっている。近いうちに連絡すると言ったのに、来週で五月ももう終わりだ。
このまま待っているだけで本当にいいのだろうか。じっとしていては状況を悪くしてゆくばかりではないのだろうか。
こんな時、女がしてはいけないことぐらい知っている。しつこくすること。後を追うこと。すがること。恋はいつだって追い掛け始めたら負けなのだから。
怜子は戦っていた。電話をしたいという気持ちを抑えるのは、まさに戦いだった。
待つ、ということが、これほど自分を消耗するとは思わなかった。仕事には身が入らず、同僚たちとのおしゃべりもうわの空だった。何をしていても落ち着かない。楽しくない。こんな状態でいったいあとどれくらい過ごさなければならないのだろう。それを思うだけで濁ったため息がもれるのだった。
五月最後の夜。
怜子は電話の前に座った。結果がどうなっても構わない。こんな中途半端な状態が続くよりよほど前向きだ。事によっては怜子の方から「もういい、別れる」ときっぱり言ってしまってもいい。当然だ。これほど失礼な仕打ちをされてまで引き止めたいとは思わない。とにかくはっきりさせたい。区切りをつけたい。でないと何も手につかない。
そう決心して受話器を手にしたはずだった。けれども悔しいことに緊張で心臓は鼓動を速め、指先は冷たく痺れている。
短縮番号1を押す。コールが二度、三度と続いた。
「もしもし」
耕一郎が出た。
次の瞬間、ひどく卑屈な声を出したのが自分でもわかった。
「あ、私」
「ああ、うん」
「本当は私からかけちゃいけないと思ったんだけど」
そんなことはないよ、という耕一郎の言葉を期待した。しかし言わない。すでに打ちのめされたような気持ちになり、自己嫌悪に包まれた。
「急がすつもりはなかったの。ただ、あんまり連絡ないから、どうなってるのか少し気になって電話してみたの」
「ごめん、ちょっと仕事が忙しかったんだ」
以前は、どんなに仕事が忙しくても、時間を割いて会いに来たものだ。無理しなくてもいいのよ、と言うと、怜子の顔を見ると疲れもふっ飛ぶんだ、なんて泣けるようなセリフを口にした。
ないがしろにされる。そのことの悲しさと悔しさと怒りと屈辱が体中に広がってゆく。しかし、もちろんそんな様子はおくびにも出さず、怜子はわざとざっくばらんな口調で、震えそうな声を隠した。
「それで、都合はどう?」
「考えたんだけど」
この後に続く言葉にいい傾向のものは何もない、ということぐらいすぐ察しはついた。怜子は慌てて耕一郎の言葉を遮った。
「耕一郎、この間の電話で、納得するまで話し合おうと言ってくれたわよね。私もそうしたい。どんな結果になるかわからないけど、五年も付き合ってて、いくら何でもこういう終わり方ってないと思うの。そうでしょう。ふたりのこと、いやな思い出にはしたくないの」
耕一郎が黙る。
「私はどんな結果になってもちゃんと受け止めようと思ってるわ。それくらいの気持ちの整理はついてるわ」
それを聞いて、ようやく耕一郎も覚悟を決めたらしい。
「うん、そうだな。悪かったよ、つい仕事にかまけて先延ばしにして。じゃあ、今度の土曜日はどうだろう。五時頃とか」
あさってだ。仕事が忙しいなんて、やっぱり口実だった。こんなにすぐに時間を作れる。つまり、三週間近くもただ単に後回しにしていたというだけなのだ。耕一郎に限ってそんなことはないと信じたいが、自然消滅を狙っていたのだろうか。まさかと思うが、今の言葉を聞いた限りでは、そう思えても仕方ないところが窺える。
「わかったわ。じゃあ、その時間にうちで待ってるから」
「いや、外の方がいいな。ほら、恵比寿にある」
ふたりで何度か出掛けたことがあるカジュアルレストランの名前を、耕一郎は口にした。
それだけで、答えの予想がついてしまいそうだった。部屋で会おうとしない。ふたりきりになろうとしない。人前なら厄介なことにならずに向き合えると思っているのだろうか。けれど、察しがついたとしても、まだはっきりそう決まったわけじゃない。耕一郎は、もしかしたら今はそう思っているかもしれないが、土曜日、顔を合わせれば心が変わるかもしれない。いいや、きっと変わる。変えてみせる。
「わかったわ、じゃあそこで」
何だかんだ言ったって、耕一郎が私と別れられるはずがない。
あんなに好きだと言ってくれた。あんなにたくさんセックスをした。この五年間は、そんな簡単になかったことにできるような時間じゃない。もう私たちは一対ついのようなものなのだから、片割れなのだから。
怜子は耕一郎が受話器を置くのを確認してから、ゆっくりと戻した。
(気になる続きは本書にて!)