東京下町の築50年近い、古いマンションの一室で、「Bistro TOH」という店を始めて、一年半になる。
正確には、店ではない。看板もないし、メニューもない。会計のレジもない。
とーさんと呼ばれる、店主兼料理人である私と、接客係のゴールデン・レトリバー犬、くまがお客様を迎えるこの店は、カウンター4席の小さな店である。
お代は頂戴しないけれど、お客様がストップと言うまで、酒や料理が次々と出て来るこの店にはひとつだけルールがある。
この店のカウンターに座ったら、本当のことを話すこと。
学生の頃、小説を書き始め、テレビ局に就職して、長年、番組作りに携わっていた私が、小説を読まず、ドラマや映画を見ないようになって久しい。
作りもののストーリーには、気持ちが動かないのである。
ドラマチックである必要はない。リアルな人の、リアルな言葉や生き方、考え方しか、今、私の心には響かない。
難しく考えることはない。楽しいと感じたこと、悲しいと感じたこと、うれしいこと、つらいこと、苦しいこと、なんとなく思っていること、今日あったこと、そんなことを普通に話せばいいだけである。
とーさんは料理を作りながら、くまはお客様の足元に寝そべって、ただ、ふんふんとその話を聞く。
お客様は、料理を食べ、酒を飲み、好きな話をして、酔っ払えばいいだけなのだ。
ここまで読んで、ちょっと怖そうな店だな、と感じた人は、心がやや閉じている状態にあるかもしれない。
心に軽い風邪をひいていたりするかもしれない。少し人間不信に陥っていたり、重い何かを抱えていたりするかもしれない。
社会に生きて行く上で、そうそう素のままでいられるわけもない。
素のままでは傷つくこともある。戦うために鎧を纏うことが必要だったりもする。
でも、時々、その鎧を外す時があってもいい。
鎧は重い。くたびれる。肩が凝る。
おっさんと犬が迎える小さな店は、社会の荒波に揉まれ、くたびれたお客様が、鎧を外し、素に戻ることが出来る場所でありたい、と私は考えている。
おっさんと犬は、肩書きも名刺も持ってはいない。
だから、当然、お客様にもそれを求めない。
もし、あなたが、肩書きや名刺を拠りどころにして、普段、生きているとしたら、この店で過ごす時間には、束の間、それを忘れて頂きたい。
妻であること、夫であること、親であること、子供であること、そういったもろもろも脱ぎ捨てて、単なる一個の人間として、時間を過ごして頂きたい。
一個の人間であるあなたが、同じく一個の人間である店主や、たまたま隣り合わせた客の誰かと過ごす、ただそのひとときを味わい、楽しむ空間を、私は提供したいと思う。
肩書きや名刺などといったものが、一生自分について回ると思うのは、間違いである。
いつか、人間には、そういったあれこれなしに、ただの自分、と対峙しなければならない時が来る。
例えば、死の床では、あなたは何物でもない。
長く勤め上げた会社を定年退職した時なども、似たような状態に陥るかもしれない。
もし、あなたが組織や社会の中で、肩書きや名刺を背負って、長く生きているなら、それを外す練習をしておくのは、悪いことではない。
あなたは、自分にとって、いろいろなものを削ぎ取った後に残る、一番本質的なものは何なのか、を考えることになる。
その答えは、あなた自身が、自分で探し出すしかないことだけれど、私は最近、こう考えている。
自分を愛し、留保なしに他者をも愛すること。自分の持つ喜びも悲しみも、抱え込まずに、誰かと分かち合うこと。
そして、過ぎ行く人生の一瞬一瞬を、精一杯慈しみ、味わい、生きること。
群れで生きていた動物であった時代の、ヒト、という生き物の生き方は一体どのようなものであったのだろうか、と私は時々、考える。
いや、そこまで時を遡る必要はないかもしれない。
例えば、冷蔵庫がなかった頃、まとまった生鮮食品を手に入れた時、人はどうしたか。
おそらく、手に入れたそれを、自分や家族で腹一杯食べる。そして、食べ切れない分は、隣人や、近くにいる誰かに、分け与えたのではないだろうか。
なぜなら、保存する手だてがないので、食べ切れない分は、腐らせるだけなのだから。
そして、次に、隣人が何かを手に入れた時には、きっとその人は、食べ切れないそれをあなたに分け与える。
そうやって私たちは、いろいろなものをすべて分かち合い、生きていたのではないか、と思うのである。
冷蔵庫が存在したり、銀行預金や不動産が存在したりする、現代の社会は、かつてと比べ、物事が複雑で、入り組んでいる。
複雑な分、見えにくくなっていることがたくさんある。
さまざまな要素や条件を削ぎ落として、「自分」と「人生」について考えてみる時間は、おそらく有用である。
さあ、今日もそろそろ開店である。
掃除を済ませ、玄関のライトに灯を入れて、既にくまは玄関先に寝そべって、お客様の来店をお迎えするスタンバイ中である。
旬の食材を仕入れてあるし、飲み物も冷蔵庫に冷えている。
今日のお客様は、どんな物語をお持ちになるだろう。
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