世間を震撼させた凶悪殺人犯と対話し、衝動や思考を聞き出してきたノンフィクション作家の小野一光氏。残虐で自己中心的、凶暴で狡猾、だが人の懐に入り込むのが異常に上手い。そんな殺人犯の放つ独特な臭気を探り続けた衝撃の取材録が、幻冬舎新書『人殺しの論理 凶悪殺人犯へのインタビュー』である。
発売6日で即重版となった大反響の本書から今回は第2章「北村孝紘の涙――大牟田四人殺人事件」を公開。映画「全員死刑」のモチーフとなったことでも有名な、家族4人で資産家一家3人とその友人1人という4人を殺害した事件。すべての犯行で実行犯となった次男の北村孝紘(たかひろ)は、人を殺したことについてどう思っているのか? その衝撃の発言が明らかとなる。
死刑判決直後の面会で見せた予想外の態度
06年10月17日の判決公判当日、私は福岡地裁久留米支部第一号法廷の傍聴席にいた。
今日ここで判決を下されるのは、北村孝紘(刑確定時は養子縁組で「井上」姓)と母の真美。孝紘はその2年前の04年9月に福岡県大牟田市で、知人母子とその友人の四人を殺害した事件の実行犯である。孝紘の父・實雄(じつお)と母・真美、兄・孝も同容疑で一緒に逮捕され、一家四人全員に死刑が求刑されたことから、当時は大きな話題となり“大牟田四人殺人事件”と呼ばれていた。
両脇を刑務官に挟まれて法廷に現れた二人は、並んで被告人席に座った。同一の事件での審理が行われる場合には、共犯者でも一方が否認したり、利益相反がなければ、複数の被告が一度に出廷する。薄いグレーの色付き眼鏡をかけた孝紘は、席に着く前に、傍聴席を威嚇するように左から右に睨(ね)めまわした。
やがて裁判長は、判決理由を先に読むことを二人に伝えた。この“主文後回し”は、極刑を予想させることから、報道関係者席から記者が一斉に立ち上がり、外に出ていく。
時間をかけて判決理由を読み上げた裁判長は、孝紘と真美をふたたび証言台に立たせて言い渡した。
「主文、被告人北村真美および北村孝紘をいずれも死刑に処する」
孝紘はそれを微動だにせず聞き、真美は深々と頭を下げた。
その翌日、私は福岡拘置所を訪ねて孝紘と3度目の面会を果たした。事前に予想したのは、孝紘は虚勢を張って、死刑判決に動じていない姿を見せるのではないかということだった。
しかし、目の前に現れた孝紘は、明らかに憔悴していた。私がなにを語りかけても「ああ」や「そうたい」といった生返事を繰り返す。つい数日前には夢を語っていた彼のその変貌ぶりは、死刑判決という現実が、いかに重いかということを物語っていた。
彼がこのような気の抜けた状況では、込み入った質問をすることができない。私は「じゃあまた明日来ます」と口にして、早々に引き揚げた。
反論は不要、どう思っているかを知ることが仕事
翌日になると、孝紘はすっかり平静を取り戻していた。面会室に入ってきた彼は、私と顔を合わせるなり笑顔を浮かべ、「連日やってくるやら、小野さんも暇なんやないと?」と軽口を叩く。
その日、孝紘は面会室に刺青の下絵を持ち込んでいた。ペンで細かく描かれた菩薩像や仁王像、龍や鯉の図柄の一部は、色鉛筆によって彩色されており、なかなかの腕前だ。
「小野さん、どれを送ればいいかいな?」
彼に聞かれ、私はそのうち何点かを選ぶ。続いて、どうしても尋ねたかったことをストレートに口にした。
「お尋ねしますけど、孝紘さんって今回、全部の事件で実行犯でしょ。どうして四人もの人を殺めたんだと思います?」
すると孝紘は、握りこぶしを作った右肘から先を胸の前に持ってきて言った。
「小野さんね、俺の腕に蚊がとまって血ぃ吸おうとしたら、パシンて打つやろ……」
孝紘は突き出した腕を平手で叩く。
「それと同じくさ。蚊も人も俺にとっては変わりないと。それだけのことたい」
私はわざとらしく、かつ親しそうに「えーっ、本当にそれだけ?」と声を上げる。
「そうねえ。やっぱ俺にとっては中学を卒業してから相撲部屋におったのが大きいんやないやろか。あのくさ、相撲部屋ってところは、たとえ歳が若かろうが、強ければ上に立てるったい。まさに弱肉強食。強い者が弱い者ば押さえつけるんは当たり前やろうってことが、どっかで身についとるんやろうね。自分もそうならんといかんと思ったったい」
その主張が内容的に正しいか間違っているかということではなく、私の仕事は彼がどう思っているかを知ることである。だから反論を挟まずにふんふんと聞き、メモを取った。
やがて面会時間の終了を告げられると、私は孝紘に自分は今日で東京に引き揚げることと、刺青の下絵を送ってくれたら雑誌に掲載することを伝え、面会室を出た。
孝紘の手紙を糾弾する記事を執筆
2日後、孝紘から封筒が送られてきた。そこには下絵とともに、死刑判決後の心境を記した手紙も添えられていた。
〈前略。絵を送ります! 使い終われば私へ送り返して下さい〉との言葉から始まる手紙は、以下の通りだ。
〈私は一審の死刑判決は当然の判決だと思う。四人もの命をこの手で殺めたのは真実故、私は自分の命をもってケジメを付けるべきと分かっている。
只、控訴の理由は、私がまだやらねばならぬ事が残っている為で、その件が終われば私は素直に判決を受けるつもりである。
最近は何も考えぬ様にしているが、時には外へ残っている家族達や友・知人達の事を考え、己の罪を申し訳ないと考えていたりする。されど、今さら何を言っても仕方がない故、今は何も考えない様にしている。
以上。乱筆乱文にて御免下さい。
北村孝紘〉
この手紙と刺青の下絵を使った記事は翌々週の週刊誌に掲載された。記事のタイトルは『元相撲取りの犯人「死刑判決直後の“厚顔”手紙」』というものだ。
私はこの記事のなかで彼の控訴の理由について、次の文章を書いた。
〈この、「まだやらねばならぬ事」とは、父の實雄被告が組長を務めた暴力団『北村組』を新生『二代目北村組』として存続させるための作業だという。周囲を愚弄するにも程がある。文面はこう続く〉
そこでふたたび孝紘の手紙を最後まで引用して〈一見、犯行を反省しているような素振りを見せながら、実態は遺族感情を逆撫でする身勝手な主張をしているのだ〉と続け、そこから被害者遺族に取材した憤りのコメントを掲載し、最後は以下の文でしめた。
〈孝紘被告からの手紙は、そんな遺族の心をさらにかき乱そうとしている〉
記事を読んだ孝紘の反応
厳しい言葉を原稿に使うことは、事前に孝紘に話していた。
「孝紘さんね、私はいまこうして親しく話をさせていただいてますが、あなたが起こした事件の内容について、庇(かば)い立てることはできません。だから、手紙を送ってはいただきますけど、記事にはきちんと悪いことは悪いと書かせてもらいますね。そのことはあらかじめお断りしておきます」
すると彼は笑みを浮かべ、「べつにいいばい。やったことは人殺しやけんね。小野さんも仕事やろうけん、好きに書いたらよか」と返してきたのだった。
事実、その記事がもとで、私と孝紘の間に張られた糸が切れることはなかった。記事が出た1週間後に彼から手紙が届き、〈前回の面会の後、他の者と喧嘩をしてしまいまして自由がなかった為、連絡出来ませんでした〉と、懲罰房に入って連絡が取れなかったことを詫びたうえで、〈別になければいいのですが、何かあれば何でも質問して下さい。私なりの答えで精一杯頑張って答えさせて頂きます。お世話になりましたので、私なりに一生懸命協力させて頂きたく思っております〉との言葉が添えられていた。
私はその手紙を受け取った直後、福岡県で04年から05年にかけて発生した“福岡3女性連続強盗殺人事件”の、福岡地裁での判決公判を傍聴する仕事があったため福岡市へ行き、取材の合間を縫って孝紘と面会した。
「もうくさ、俺は小野さんの原稿で極悪人になってしもうたばい」
いたずらっぽい目で孝紘は切り出した。
「まあまあ、私はあくまで事実を書いただけですから」
そう私が返して、しばらく雑談をしていると、孝紘は「そうそう。俺くさ、自伝みたいなんを書きよるったい。生い立ちから、小・中学校、少年院、暴走族、相撲部屋、極道のことやらいろんな話があるけんね。あと今回の事件についてもそうたい。これらを全部ありのまま、120パーセント暴露しようと思うとるがけんくさ、書き上げたときは協力しちゃって。それからくさ、うちの母ちゃんもなんか自伝みたいなことば書きようみたいなんよ。やけくさ、そっちのほうも頼むったい」と口にした。
その話をおもしろいと思った私は頷く。すると交渉に長けた彼は、両手を合わせて、あることをお願いしてくる。
「そいでくさ、小野さん、悪いけど今度出る刺青の画集があるっちゃけど、それば買って差し入れてもらえんかね。代金はあとでかならず払うけん」
これはある意味での利益供与ということになるのかもしれないが、私は快諾した。当然のことながら、買って送ってから代金を請求するつもりもなかった。彼が頼む本は総額で1万円以下のものであり、それくらいは私のポケットマネーで賄える。貴重な情報提供の代価としては安すぎるくらいだ。
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