年下に片思いする文系女子、不倫に悩む美容マニア、元彼の披露宴スピーチを頼まれる広告代理店OL……。恋愛下手な彼女たちが訪れたのは、路地裏のセレクトショップ。不思議なオーナーと自分を変える運命の1着を探すうちに、誰もが素直な気持ちと向き合っていく――。
17万部突破のロングセラー、『試着室で思い出したら、本気の恋だと思う。』は、繊細な大人たちの心模様を丁寧に綴った恋物語。本書の中から、短編「あなたといたい、とひとりで平気、をいったりきたり」を、5回に分けてお届けします。
十年前の記憶
中学一年生のとき、恋人ができると薬指の指輪をもらうと聞いて怖くなった。男の人に指輪のサイズを伝えないといけないくらいなら、わたしは恋人なんかいらない。一生片思いでもいい。ぷっくりした自分の指を見ながら、土谷メイコは思った。
人前で手を隠すようなしぐさが、もじもじとした引っ込み思案な性格につながっていったのかもしれない。
「ちゃんと手を出しなさい。なんですぐポケットに手をつっ込むの?」
ポケットに入れた手を、母親に何度注意されたことか。
どんなに怒られても、メイコは母親に本当の理由を話せなかった。
メイコの母親は白くてふっくらとした指の持ち主だった。銀の結婚指輪は、短い母の薬指にめり込んでいた。サイズが小さいわけではないらしく、指輪を外すときは、指のやわらかい肉を移動させながらするすると抜いた。このむくんだような肉厚な母親の手が、メイコの手にそっくり受け継がれたのだ。
どうしてわたしは、すらっとした指じゃないんだろう。
小学校三年生のときにクラスでいちばん仲良しだった女の子から言われたことを、メイコは今でもはっきり覚えている。決して悪気があったわけではなく、おもしろい発見をしたという感じだった。それがよけいにメイコを傷つけた。
「メイちゃんの指って短くて、赤ちゃんたらこ、みたいだね」
放課後の音楽室で、リコーダーの練習をしているときだった。なんと答えていいのかわからず、メイコは「えへへ」と笑った。
家に帰って母親の顔を見た瞬間に、わんわんと泣いた。
「たらこって、赤ちゃんいるの?」
むせびながら、メイコは母親に聞いた気がする。その夜は、大好物のハンバーグを初めて残した。母親のふっくらとした手でこねられる、さらにふっくらとしたハンバーグは、メイコの指をなおさら太くする気がしたのだ。
母親だけじゃなく、おばあちゃんも、白くて福々した指をしている。
長生きだったひいおばあちゃんが死んだときも、棺の中で固く結ばれている指を見てメイコは思った。
ああ。わたしは九十歳のおばあちゃんになっても、顔がしわしわになっても、指は白くて太いまんまなんだな……。
良太郎に「かわいい手」と言ってもらえて、メイコは初めて男の人と手をつなぎたいと思った。指を絡めた手のつなぎ方も、自信を持ってできるようになった。
それは魔法のような瞬間だった。
コンプレックスだった自分の手を、好きだという人がいる。それなら自分の指をもっともっとかわいくみせたい。
たらこ指も、かわいいネイルをすればチャームポイントに変わるかもしれないと思った。
メイコと良太郎は、大田区にある高校の同級生だった。
良太郎はサッカー部で、身長が一八三センチあった。保健委員だったメイコは四月の健康診断のときにこっそり診断表をチェックした。体重は六九キロで、座高は九三センチ。仲間の輪の中にいて笑いながら話を聞いているタイプの男子で、顔立ちも目立つほうではない。メイコはそこがカッコいいと思った。
高校三年生になって同じクラスになれたものの、良太郎と話せる機会は月に一度もやってこない。良太郎のことを好きだという女の子は、メイコの他にも何人かいたが、彼の浮いた話は聞いたことがなかった。
告白どころか話しかけることもできない完全な片思いだったが、一五三センチの自分と良太郎は、ちょうど三十センチ違う。そんなことですら、メイコは運命のように感じていた。
だから、卒業まで二週間に迫った頃、良太郎から「好きだ」と言われたときは、信じられない思いだった。
生徒たちはそれぞれに進路も決まり、ホームルームばかりで授業はほとんどなくなってきていた。日直のためにいつもより三十分早く教室に着いたら、良太郎がポツンと机に座っていた。
「お、おはよう。早いね」
その状況をどうしていいかわからず、やっとのことで挨拶を口にすると、
「土谷にちょっと話があって」
と良太郎が言った。それが「好きだ」という話だった。
卒業して会えなくなる前に、伝えようと思ったらしい。良太郎の大きな手が、落ち着きなく動いていた。緊張しているのだろう。ものすごい緊張しているメイコにも、それがわかるほどだった。
メイコは震えた小さな声で「いいです」とだけ答えた。
その日は高校生活最後の日直だったのに、「起立!」も「礼!」も、先生に注意されるまで、メイコは毎回のように忘れてしまった。
「今日の土谷はいつにも増して、ぽけっとしてるなぁ」
と先生に言われて赤くなる。そのたびに良太郎がうしろのほうの席で、クスリと笑っているような気がした。
「わたしのどこを、好きになってくれたの?」
付き合いはじめてしばらく経ってから、良太郎に聞いてみた。学校の近くのファストフード店で、ポテトをつまみながらお茶していたときだ。なんだよそれって顔で、良太郎はメイコを見た。
学生たちが群がる店内で、他のカップルに混じってお茶する。それだけでも、メイコには新鮮な体験だった。
「えー? どこがって?」
太めのポテトにケチャップを付けながら、良太郎は面倒くさそうに聞き返す。
「良太郎のこと好きって子、けっこういたのに、なんでわたしだったのかなって思って」
告白されてから、ずっと心の中にある疑問だった。
「どこって聞かれてもなぁ」
良太郎は大きな手を、胸の辺りでせわしなく動かす。答えるのが面倒くさいのではなく、照れているのだとメイコは気がついた。
「おとなしくて、やさしい感じがしたとこかな」
ポテトをつまもうとした指を、メイコはすっと引っ込めた。
やっぱりかわいいとかじゃないよね。
「あと、手かな」
良太郎がぼそっと言う。
「え? なんて?」
「だから、手。ふっくらしてるから、かわいいと思った」
「好きだ」を聞かされたときと同じくらい、メイコはびっくりしてしまった。良太郎がわたしの手をかわいいと思っている。そう思うと、ますます良太郎が好きになる。一生このまま、良太郎と一緒にいたい。これ以上、もう何も望みません神様! とメイコは思った。
あれからもう、十年近くになる。お酒も飲めない学生だったふたりも、今では二十七歳。十年ひと昔という言葉が適切かはわからないけれど、近ごろメイコは良太郎との関係に悩むことが多くなってきている。
「神宮前に、すっごいかわいいカフェがあってー。もー超美味しくてー」
常連の女子大生がしきりに話している。
本日担当する最後のお客さんだ。
メイコの勤めるネイルサロンは、目黒駅から徒歩一分の場所にある。東口のロータリーを挟んで向かい側に並ぶ雑居ビルの中だ。学生割引があるからか、客層は若い子も多い。当日では予約が取りづらいほど、最近ではどの時間帯も埋まっている。
明日の土曜はシフトが入っていない。それを思い出すと、あとひと息がんばろうと思える。週末はさらに予約が混み合うので、スタッフの休みは土日のどちらかと平日のどこかで一日、というルールで組まれていた。
「ケーキも美味しいけど、特にジェラートが超サイコー!」
ネイルをしている最中にメイコから話しかけることは滅多にないが、お客さんの話を聞くのはけっこう好きだ。
「へー。ジェラート……」
思わず顔がほころぶ。甘いものには目がないクチだ。
「ミントとか、ピスタチオとか。意外にもジェラートとカフェラテとかって、冷たいと熱いで最高の組み合わせ!」
「美味しそうですねぇ。じゃあ次は右手の親指を入れてください」
「はーい。そのピスタチオのジェラートの色に今度したいなー。超かわいいんだから」
ピスタチオってどんな色だっけ?
オレンジ色のジェルを丁寧に塗りながら、メイコは考えた。
(続く)