年下に片思いする文系女子、不倫に悩む美容マニア、元彼の披露宴スピーチを頼まれる広告代理店OL……。恋愛下手な彼女たちが訪れたのは、路地裏のセレクトショップ。不思議なオーナーと自分を変える運命の1着を探すうちに、誰もが素直な気持ちと向き合っていく――。
17万部突破のロングセラー、『試着室で思い出したら、本気の恋だと思う。』は、繊細な大人たちの心模様を丁寧に綴った恋物語。本書の中から、短編「あなたといたい、とひとりで平気、をいったりきたり」を、5回に分けてお届けします。
キライになったわけじゃない
「土谷さん、ちょっとだけいいかな?」
仕事が終わってネイルサロンを出ようとしたとき、メイコはオーナーの洋子から声をかけられた。
「あなた明日お休みよね……。ちょっとあっちの部屋で」
メイコは言われるがままに、オーナーの個室に入る。
洋子は四十手前でありながら、すでにふたつのサロンを切り盛りしている。どちらも予約が混み合う人気サロンになっているので、さらに一店舗増やそうかという計画もあるらしい。
「ご満足いただけたら、次も絶対いらっしゃる! 目の前にいるお客さまと常に勝負よ!」
洋子はスタッフの前で、そんなことを嫌味なく言ってのける豪腕だ。昔はグラビアに出ていたらしいと、先輩スタッフから聞いたことがある。それほど意外でもないのは、洋子が美貌をキープしているからだろう。トイレの鏡の前で並んだときなど、若い頃はどれほど美しかったのかと思わず見とれてしまう。
メリハリのあるボディに上質な服。ビューラーでバッチリ上げた豊かなまつ毛と、目尻まで黒いラインを引いたアイメイクが人目をひく。かなり派手な印象を与えるが、洋子にはそれがよく似合っている。
「わたしが稼いでるのをいいことに、ダンナはいまだに劇団員やっててね。もう結婚して十年も経つのに、困っちゃう」
飲みの席になると洋子はたまにそう愚痴るが、全然困っているふうではない。それどころかラブラブ度合がよくわかる。お酒が入ると陽気になって、どんどん声が大きくなるタイプだ。
ざっくばらんに話ができる、洋子みたいな女性を「アネゴ肌」と呼ぶのだろうか。サロンのみんなから恐れられつつも、最も頼れる存在だった。
「来月からの人事の話なんだけど」
わたしに何かまずいことがあっただろうか。
洋子のめずらしいヒソヒソ声にメイコは身構えた。
「土谷さんには、この目黒店のチーフをやってほしいの。園山さんはリニューアルする五反田本店のマネージャーになるから」
目黒店のチーフ?
「新しいネイルデザインにトライするあなたの姿勢を買ってるの。ネイルサロンの人気なんて水モノよ! わたしたちが変わり続けないと置いてかれるわ」
「はぁ」
確かにメイコは一年くらい前から、新しいデザインアートに挑戦している。アイデアを出してはチップで試し、マネージャーの園山さんに見せていた。そのいくつかは採用されて、店のサンプルにもなっている。
「そんな元気のない返事して! あなたももう長いし、技術は確かなんだから大丈夫よ。基本的な業務は大きく変わらないけど、そろそろ後輩の指導なんかもね!」
メイコがまだ反応できないでいると、洋子は握手を求めてきた。
「ダイジョーブだって! 一緒にがんばりましょう!」
透明ジェルのベースに、細かい金のラメがストライプ状で入っている。洋子のネイルに思わず目がいく。いつもは大ぶりな3Dアートを施している洋子にしては、めずらしくシンプルなデザインだ。
繊細でシンプルなものほど、ごまかしがきかず難しい。洋子はネイルを、いつも自分ですると言っていた。サロンを二店舗に広げてから、もう何年もお客さんにネイルをする業務からは離れているはずなのに、不思議なほど洋子の腕はまったく落ちていない。
洋子に解放されたあと、メイコは急いで山手線に乗った。良太郎の家の近くの中華料理屋で、待ち合わせしているのだ。
人事の話を聞いていたせいで、約束の九時を二十分ほど遅れて店に着いた。
良太郎はひとりでカウンターに座っていた。テーブルの上のビールジョッキがすでに空いている。水餃子が美味しいこのお店は、いつも湯気と活気に溢れている。何十年も前からあるらしく、街の名物店のような存在。良太郎は子供の頃から通っていて、メイコも今ではすっかり顔なじみだった。
開口一番、遅れてゴメンねとメイコが謝ると、
「腹減り過ぎてまいった」
と、良太郎が不服そうな顔でつぶやいた。
「食べててくれてよかったのに」
そう言いながら、良太郎の隣のスツールに腰を下ろした。
ちゃんと謝ってるんだから、そんな態度しなくてもいいじゃん。
遅れちゃうってメールも送ってるんだし。
そもそもこっちだって、遊んでたわけじゃないのに。
メイコの心に、ブツブツと文句が溢れ出す。
最近このパターンが多い。些細なことですぐにぎくしゃくしてしまうのだ。そしてそのぎくしゃくをどうにもできないまま、ずるずると一緒の時間を過ごしてしまう。
「ホントごめんね。すいませーん。生ビール二杯ください!」
メイコは反論しないかわりに、とりあえず仕事上がりの一杯を飲むことにした。
羽田空港にほど近い京急蒲田が、良太郎の地元だ。大学を卒業して、彼は親の会社で働きはじめた。電子部品を作る工場を管理する会社だと前に説明されたが、メイコには具体的な仕事は何もイメージできなかった。朝は早いが、夕方の六時には仕事が終わる。
その会社は良太郎の家の隣、いわば敷地内にある。始業時間の十分前に起きれば、ギリギリ間に合うらしい。おじいちゃんの代からある会社で、お父さんが二代目社長だ。良太郎は長男なので、ゆくゆくは継ぐのかもしれない。
彼は自分の仕事の話をほとんどしない。対照的にメイコは、サロンに来たお客さんや同僚の話を、よく良太郎にする。予約が増える一方のサロンは、半年前に閉店時間が午後八時から三十分間延長された。その頃から、良太郎とのケンカが多くなった気がする。職場の楽しい話ばかりではなく、忙しさに比例して、つい愚痴になってしまうこともある。そうすると良太郎は決まってこう言うのだ。
「そんなに文句があるなら辞めればいいのに」
「別にそういう話じゃない」と、メイコは逆に怒りたくなってしまう。
明日も前向きに仕事をするために、ガスを抜きたいだけなのよ、と。
愚痴ってしまうのは申し訳ないけれど、「大変だね」と、共感してもらえるだけで、気が済んだり心が軽くなることもあるのだから。口数が少なく、言葉の足りない良太郎に、メイコはイライラすることが多くなった。
良太郎からすると、そんなフラストレーションを抱えてまで仕事を続ける意味がわからないということだろう。ネイルの仕事を趣味や遊びの延長だと、とらえているふしがある。
「疲れてイライラするくらいなら、もう辞めてくれ」
はっきりそう言われたこともある。
それからは、良太郎に一切愚痴めいたことを言うのを止めた。ネイルサロンの話も極力しないように気をつけた。ふたりで食べに行くごはんの話や、テレビで見た芸人の話、良太郎の地元の友達の話。メイコはそんな話題ばかりを選ぶようにした。
次第に話すこともなくなって、メイコの口数も減り、なんとなく空気が悪くなっていった。
だいたい良太郎は、蒲田という街から滅多に出ようとしない。中学高校とサッカー部だった彼は、社会人になってからも、地元のフットサルチームに入っていた。メンバーのほとんどが小学校からの同窓生。その練習や試合で、たまに電車で移動するくらいだ。
「表参道にできた韓国料理のお店、すごく美味しいらしいよ」
たまには都心でデートしたくても、「帰りが面倒くさいだけじゃん。飲んだら歩いて帰りてーよ」などと、良太郎は間違いなく億劫がるだろう。そう思うと、誘ってみることすら面倒くさくなってしまう。
家も、職場も、友だちも、恋人も、全部を地元で済ませて、良太郎は退屈だったり、飽きたりしないのかと、メイコは疑問に思うことがある。地元ラブなのもわかるが、わたしだったら、もっと新しいことをやってみたい。
いつの間にか、地元から出ようとしない良太郎に、不満を感じるようになってしまった。
これがマンネリなのかな。
湯気の立たなくなった水餃子に箸を伸ばしながら、メイコは思った。
十年前なら、良太郎の隣にいられるだけで、いつもニコニコしていられた。しゃべらなくても、隣を歩いたり、一緒にごはんを食べたりするだけで、夢のようだと思っていた。今ではその頃が、ものすごい遠い昔のことのように思える。
良太郎をキライになったわけではない。前ほど好きかといえば、それは微妙だと思う。良太郎の何が変わったわけではない。良太郎が変わらなさ過ぎるのだ。
中華料理屋を出て、京急蒲田の駅まで歩く道すがら良太郎がポツリと言った。
「俺、実家出て部屋を借りようと思ってんだ。そうしたら一緒に住まないか」
そんなことを考えていたなんてメイコは初耳だ。すぐには答えられないでいると、良太郎から話をそらした。
明日の土曜日も、羽田空港近くのコートで朝から試合だという。
「起きれたら、観に行く」
そう答えるメイコに、良太郎は不満そうだ。観に行ったところで、メイコは何をするでもなく、ぼんやり観戦しているだけなのに。
チーフに選ばれた話をするタイミングを、メイコは完全に失った。
(続く)