年下に片思いする文系女子、不倫に悩む美容マニア、元彼の披露宴スピーチを頼まれる広告代理店OL……。恋愛下手な彼女たちが訪れたのは、路地裏のセレクトショップ。不思議なオーナーと自分を変える運命の1着を探すうちに、誰もが素直な気持ちと向き合っていく――。
17万部突破のロングセラー、『試着室で思い出したら、本気の恋だと思う。』は、繊細な大人たちの心模様を丁寧に綴った恋物語。本書の中から、短編「あなたといたい、とひとりで平気、をいったりきたり」を、5回に分けてお届けします。
ひとりの休日
翌朝、思う存分に寝坊するはずが、七時には目が覚めてしまった。
起きる気にもなれず、そのままベッドの中でゴロゴロと寝返りを打つ。カラダ中が硬くなっている。
ネイルサロンでは、お客さんと話すことにまず気を遣う。口ベタなメイコにはなおさらだ。マスクの下で、顔がこわばっていることもよくある。会話と並行して、手先では一ミリ単位にまで神経を遣う作業が続く。肩も腰もパンパンに凝って、一日の仕事が終わると心身ともにぐったりするほどだ。趣味や遊びじゃやってられない仕事だ。
もう少し眠っていようと小一時間ほど粘ったが、カラダは疲れているはずなのに、まったく眠れなくなってしまった。
仕方ない。起きるか。
ベッドから抜け出して、カーテンを開ける。今日から三月だ。それでも朝はまだ十分に寒い。パジャマの上にピンクのフリースを羽織って階段を降りた。
コーヒーを淹れようかと思ったが、その前にお風呂に入ることにした。昨夜はあまりにも疲れていて、メイクを落としただけで、そのままベッドにもぐり込んでしまったのだ。追い焚きのスイッチを押して、お湯が温まるまで、先に髪やカラダを洗う。
三年前に姉が結婚してからは、メイコは両親と三人で暮らしている。一軒家のお風呂場は寒い。特に冬の朝はつらい。メイコの白い肌に、鳥肌が立つ。マンションだと気密性が高いので、朝でもシャワーだけで平気だと、お客さんが話していたのを思い出す。
湯舟につかると、まだちょっとぬるかったが、ゆっくりカラダをほぐしていった。
良太郎が借りるといった部屋は、シャワーだけでも寒くないのだろうか。
そんなことをぼんやり思いながら、メイコは自分の白い指をじっと見つめた。相変わらず短くぷっくりとしているが、指先のフレンチネイルが、メイコの指をバランス良く見せてくれている。薄紫のベースに、白いレース模様でフレンチにしたものだった。レースでフレンチができたらかわいいかもと、メイコが思案したデザインだった。
来月から、わたしは目黒店のチーフになるんだ。
昨夜、洋子がしていたネイルを思い出す。
チーフの上には、店長みたいな立場のマネージャーと、オーナーの洋子しかいない。改めて考えてみるとすごいことだ。現在目黒店のチーフをしている園山さんは、ベテランの先輩だ。
週に一度は閉店後に、五反田本店と目黒店それぞれのチーフとマネージャー、そしてオーナーが集まってミーティングをしている。スタート時間がすでに遅いので、終電間近になることが多いと、園山さんは言っていた。
良太郎がいい顔するわけない。一緒に住んだら、なおさらだ。
メイコは頭の中がぐちゃぐちゃになって、どう考えていいのかわからなくなってしまった。すっかり温まった浴室で、今度はのぼせそうになる。
そういえば、ピスタチオってどんな色だっけ。
脈絡もなくメイコは昨日のお客さんの話を思い出した。
よし、今日は渋谷に行こう。せっかくの土曜休みをムダにしたくない。羽田のフットサルコートには行かない。
ピスタチオのジェラートを食べてみようじゃないか。
クローゼットの中から、パステルの薄紫色のカーディガンを取り出して、オフホワイ卜のキャミソールの上に着た。ネイルの色と合わせた組み合わせ。デニムのスカートと、厚手の黒いタイツをはく。これにスプリングコートを羽織れば、寒くはないはずだ。
お風呂上がりということもあるが、おしゃれをすると体温まで上がってくる気がする。メイクの仕上げに、いつもよりしっかりピンクのチークを入れてみた。
レースアップのこげ茶色のロングブーツをはいて、家を出る。
東京下町の風情が残る商店街を駅に向かって歩きながら、空を見上げた。羽田空港から飛び立ってゆく白い飛行機が見えた。
運良く急行に乗り合わせ、三十分で渋谷の駅に着いた。十一時前のスクランブル交差点は人もまばらだ。
いつの間にこんなビルが建ったんだろう?
街の様子が少しずつ変化しているのを感じながら、ファイヤー通りを歩いていく。
ここは、違う洋服屋さんじゃなかったっけ……。
そういえば、最後に良太郎と渋谷に来たのはいつだろう。思えば、メイコ自身が昼間に渋谷を歩くこと自体がずいぶん久しぶりなのだ。雲ひとつない青空は、日差しが眩しい。朝の鳥肌がウソのように、春らしい陽気だ。
お目当てのジェラート屋さんは、渋谷消防署の近くで、すでに行列ができていたのですぐにわかる。中をのぞいてみると、カップルや女子高生と思われるグループたちで満席だ。想像していたよりも若者向けのポップな色合いの店内からは、にぎやかなおしゃべりが聞こえる。
その中にひとりで座る気にもなれず、テイクアウトでピスタチオのジェラートをオーダーした。公園通りのほうへ坂道を上がって行く途中に小さな公園があり、確かベンチもあったはずだ。
メイコは誰もいない公園のベンチに座り、ジェラートをスプーンですくってみる。ジェラートに使われているピスタチオは、シチリア産だとプレートに書いてあった。香ばしくて、クリーミー。こんなジェラートは、今まで食べたことがない。行列ができるのもうなずける。高校生にはもったいないくらいの味だ。
あっという間に食べ終わり、しばらく余韻にひたる。ひとつ小さなあくびをしながら考えた。
わたしにチーフなんてできるのかな……。
園山さんは、社交的でお客さんとの会話も上手だ。口ベタなわたしとは大違いで、スタッフからの信頼も厚い。もちろんスキルもあって、指名客もわたしよりだいぶ多いはずだ。
洋子の「ダイジョーブだって!」という言葉を、メイコはひと晩経っても消化できずにいた。早くに目が覚めてしまったのも、どこか緊張していたからかもしれない。
腕時計に目をやると、十一時になろうとしている。
そろそろ第一試合が終わった頃だ。トーナメント戦なので、勝ち進めば夕方まで続くと良太郎は言っていた。
仕事と良太郎が、交互に頭をよぎる。メイコは急に寒さを感じて立ち上がり、おしりについた埃を払う。さすがに外でジェラートを食べるには、まだ早かったかもしれない。
せっかく渋谷まで出たんだから、今日はこのまま買い物でもしよう。そういえば洋子がこの辺りにおしゃれなショップがあると話していた。
モヤモヤした気持ちを晴らすように、メイコは歩き出した。
「いらっしゃいませ」
ショップの店員の声がかかる。女性のわりに低い声だ。
開店から間もないからか、店内には他に客はいなかった。白い店内は、よけいにひっそりと感じる。だいたいの場所を洋子に聞いていなければ、たどり着けなかっただろう。表通りから細い小道を入った奥に、そのセレクトショップはあった。
「たまに行くたびに、必ず何か買っちゃうのよ」
洋子はそう話していた。ラックに並んでいる服を見ると、確かにセンスのいいセレクトだ。
レザーのショートパンツに目がいく。薄手のバックスキンが洒落ている。大胆なショートパンツなどもはいてみたいと思うが、できれば太ももやおしりは、ふんわり隠しておきたいところだ。ここの店員みたいなら、このショートパンツも似合うだろう。背が高く、手足が長くて、全体的にさらりとしたトーン。モデルさんみたいだなとメイコは思った。
ラックに掛かっている洋服を順に見ていくうちに、小花柄のスカートに目が留まった。グレー地に紫とピンクの花柄が愛らしい。小花柄のスカートは、メイコの定番アイテムだ。
チーフになったお祝いに、今日は買っちゃおうかな。
春らしいラブリーなスカートだが、グレーとピンクを基調にした花柄は、大人っぽい印象にもなる。フレアではなく、わりとタイトなのもいい。
メイコは昔から、ガーリーな洋服が好きだ。色もパステルを基本に、白やピンク、茶色といった女の子らしいものを選ぶ。カタチが甘過ぎると子供っぽくなってしまうが、背が低く色白でぽっちゃりとしたメイコには、やわらかい雰囲気の洋服がよく似合った。黒っぽいシックな洋服を着ることは滅多にない。
「試着してみていいですか」
メイコが店員に向かって言うと、
「こちらでどうぞ」
と、白い扉が開かれた。
試着室は、店内の広さのわりに、贅沢にスペースがとられている。正面の壁は一面が鏡になっていた。その前には、ひとり掛けの黒いソファ。
どうぞゆっくり試着してください。
まるでそう言われているようなつくりの試着室だ。
「ごゆっくりどうぞ」
と言って、店員が静かに試着室の扉を閉めた。
(続く)