年下に片思いする文系女子、不倫に悩む美容マニア、元彼の披露宴スピーチを頼まれる広告代理店OL……。恋愛下手な彼女たちが訪れたのは、路地裏のセレクトショップ。不思議なオーナーと自分を変える運命の1着を探すうちに、誰もが素直な気持ちと向き合っていく――。
17万部突破のロングセラー、『試着室で思い出したら、本気の恋だと思う。』は、繊細な大人たちの心模様を丁寧に綴った恋物語。本書の中から、短編「あなたといたい、とひとりで平気、をいったりきたり」を、5回に分けてお届けします。
最高の記念日
「お客さま、もしよろしかったら」
いつの間にか、店員の手に一着のスカートがあった。
「こちらもお試しになりませんか? カタチはまったく同じものですが、無地のものです」
渡されたスカートは、黒に近いチャコールグレー。
ふんわりした素材感は小花柄と同じだが、シンプルでより大人っぽい。若干グレーがかっていることで、黒よりも落ち着いた印象になっている。フットサルコートや豚鍋に着て行くのはもったいない。このスカートなら、いつもとは違う場所に着て行きたい。
「着てみていいですか」
「もちろんです。どうぞ比べてみてください」
店員は小さくうなずいて、再び試着室の白い扉を開けようとした。
彼女の手もとに、思わず目がいく。透明のジェルに、金ラメのストライプ。
「ネイル、見せてもらってもいいですか?」
メイコは思わずそう言っていた。
「ネイルですか?」
少し驚いたみたいだが、店員はすっと右手を差し出してくれる。
そのネイルは、昨夜、洋子がしていたものとよく似ていた。ラメの太さやカーブの取り方までそっくりだ。
「あ、すいません」
まじまじと見てしまって、メイコは急に恥ずかしくなった。
「キレイだなと思って。すいません」
メイコはそっと手を離した。メイコの気まずさを察したのか、店員が言った。
「お客さまの中にネイリストさんがいらして、いつもやっていただくんです。このショップを閉める頃には、ほとんどのサロンは閉まってしまう時間なんですけど、特別に入らせてもらって……」
「すごい上手ですね。ありそうで、でも意外とめずらしいデザインだし」
自分もネイリストだと、メイコはあえて言わなかった。
「もうあまり現場ではされない方みたいですが、新しいデザインにトライしたいからって、わたしは完全におまかせなんです」
あ、もう絶対、洋子さんだ。
彼女はオーナーの仕事をしながら、閉店したサロンに知り合いのネイルモデルを呼んではネイルをしているのだろう。技術を鈍らせないどころか、常に新しいデザインも考え続けているのだ。
何より、ネイルモデル本人の雰囲気にぴったりマッチした質感とデザイン。店員の痩せた骨がちな手を、曲線のストライプを描くことによって、やわらかくやさしく見せている。洋子にしては少し地味に思えたネイルは、この店員のために考えたデザインだったんだな。
「目の前にいるお客さまと常に勝負よ!」
洋子の口癖を思い出す。確かに洋子さんは勝負している。何十回も聞かされた言葉の本意にメイコは気づいた。「勝負する」というのは、「目の前にいる人を常に真正面から受けとめられるか」。
わたしは勝負できているのかな。
試着室の鏡に映る自分を正面から見てみる。
小さくて、ぽっちゃりしていて、色の白い女がそこにはいる。気が弱そうで、おっとりして見える。高校生の頃から、大して成長していないようにも感じる。
それでも、いつか自分も洋子のようなネイリストになりたいと思った。
人と比べておしゃべりが上手じゃないとか、社交的じゃないなんて、そんなの言い訳だ。向き合おうとしているかどうか。まずはそこなんだ。
あんなに不安だったチーフの仕事も、がんばれそうな気がする。
グレーのスカートを着てみると、さっきまでの小花柄がやけに子供っぽく思えた。やわらかいニュアンスは変わらないのに、シックな風合いがあった。
試着室を出て、そわそわと、鏡に映るスカートをいろんな角度から見てみる。
「このグレーは、後染めなんです。真っ白い生地を何度も重ねて染めて、この色合いと風合いが生まれます」
店員はまるで宝物を見るような目でチャコールグレーのスカートを眺めている。
ネイルに似ているな、とメイコは思った。少しずつ薄く色を何度も重ねていったほうが、仕上がりの発色がキレイなのだ。
「わたしには、大人っぽ過ぎませんか?」
うしろ姿を鏡に映しながら、店員に聞いてみる。
「どうでしょう。わたしは、お客さまの白い肌やパステルのネイルのかわいらしさが引き立つと思います」
メイコの顔が思わずほころぶ。
「じゃあ、着替えますね」
そう言って、メイコは試着室の扉に手をかけた。
「赤ちゃんたらこ」みたいなわたしの指。それをかわいいと言ってくれたのは良太郎だった。そのことでわたしは自信がついて、もっとかわいくなりたいと思えたのだ。
ネイリストになったのは、良太郎のお陰なんだな。もし自分と同じように、手にコンプレックスを抱いているお客さんがいたら、似合うネイルを見つけてあげたい。かわいいネイルがあれば、ポケットから手を出すことはできるかもしれない。
そう思ってメイコはネイリストになったことを、良太郎に伝えていなかったことに気がついた。どれだけネイルの仕事が好きかということも、良太郎に話していない。
デニムのスカートにはき替えていると、鏡の前にある黒いソファから、メールの受信音が鳴った。バッグのファスナーを開けてケータイを取り出すと、良太郎からだった。
『1回戦敗退。午後の試合はなくなった。今夜は品川のイタリアンを2名で予約してある。今年は忘れなかったぞ! 起きたら連絡して』
メイコは思わず口を押さえた。
三月一日。十年前の今日は、良太郎が「好きだ」と言ってくれて、メイコが「いいです」と答えた日だ。毎年ふたりで、ささやかに記念日をお祝いしてきたのだ。去年は良太郎がすっかり忘れていて、確かメイコがすねたのだ。今年はメイコが忘れていた。
良太郎は良太郎で、わたしと向き合おうとしてくれている。それを忘れていたのは、わたしのほうだったのかもしれない。
別れる勇気もないくせに、惰性で付き合っていたのは、わたしのほうかもしれない。新しい色を何度でも重ねていく手間と気持ちを、わたしは面倒くさがっていた。なんでわたしがネイリストの仕事をしているのか。なんで鍋だけじゃなく、表参道のレストランで食事をしたいと思うのか。自分の気持ちを伝えることもせず、良太郎にはわからないと決めつけていた。
「目の前にいるお客さまと常に勝負よ!」
洋子の言葉を、もう一度思い出してみる。試着室の鏡に向かって、メイコはひとりガッツポーズをしてみた。
「すいません。これ、いただきます」
メイコは店員にスカートを渡す。十年目のふたりにふさわしいほうのスカートだ。
これを着て良太郎と話してみよう。
どんな色をこれからふたりで重ねていこうか。
入り口のガラス扉を開きながら、店員が言う。
「お客さまも優秀なネイリストさんなんですね」
思いがけない言葉に、メイコは驚いた。
「どうしてネイリストだとわかったんですか?」
ネイルに興味を持っただけでは、ネイリストだとは限らない。
「ただ手をにぎるだけで、上手なネイリストさんはわかりますから。お客さまはすぐにネイリストさんなのだと気づきました」
店員のその言葉は、メイコを何より励ましてくれた。
腕時計の針は、十一時四十分を指している。
渋谷に着いてからまだ一時間ちょっとしか経っていなかった。ジェラートを食べたのが、ずいぶん前のことのように思える。
ピスタチオは、うっとりするような鮮やかなグリーンだった。
あの香ばしくてクリーミーなジェラートを、良太郎にも食べさせてあげたい。大人の恋人たちに似合う、絶品ジェラート。良太郎がこれから家に戻ってシャワーを浴びても、ディナーまでにはたっぷりと時間がある。
良太郎がひとりで食べるのが恥ずかしいなら、ご相伴にあずかってもいい。スイーツも午前と午後で分けるなら、ぽっちゃり体型にもさほど影響はないだろう。
暖かい春の太陽がますます光を強めている。昨日と同じようで、新しい光だと、メイコは感じた。
ありふれた春だけど、冬をのりこえた春だもん。
(続きは書籍にて!)