電車での忘れ物を保管する、通称・なくしもの係。そこにいるのはイケメン駅員となぜかペンギン。不思議なコンビに驚きつつも、訪れた人はなくしものとともに、自分の中に眠る忘れかけていた大事な気持ちを発見していく――。
第5回「エキナカ書店大賞」第1位に輝いた、『ペンギン鉄道なくしもの係』。駅のなかの本屋さんが選んだ、「いちばんオススメの文庫本」です。今回は特別に、本書の冒頭を少しだけみなさんに公開します。
フク、どこへ行ったの?
「落とし主が現れて、すでに受け取っていかれました」
「そんな」とうわずった声をあげる響子をなだめるように、守保が説明する。
東川浪線の終点江高駅で乗客全員が降りた後、ロングシートの上にそのまま残っていた黒のメッセンジャーバッグは、車両点検に来た車掌によって拾われた。バッグの中に銀色の骨袋に包まれた白い陶器の骨壺が入っていることも確認したそうだ。そして車掌が会社の遺失物取扱規程に則り、拾得物を守保のいる遺失物保管所に送ろうとしていた時、江高駅の駅長室に「さっき電車に忘れ物をしちゃって」と一人の男性があわてた様子で訪ねてきた。
男性は車掌の拾った遺失物の特徴──黒のバッグの中に銀色の骨袋に入った白い陶器の骨壺が入っていること──をそっくり告げて、身分証明書として運転免許証を提示した後、しかるべき手続きを踏んでメッセンジャーバッグを持ち帰ったという。
「受け取りの際に住所も電話番号も氏名も書いてもらう規則なんで、男性の所在ははっきりしているんです。すぐに連絡をとってみますから、安心してください」
守保の声を聞きながら、響子は足元がグラグラゆれている気がしてならなかった。誰かが自分のバッグを持ち帰ったと聞いた瞬間に頭からサアッと血がおりてしまったから、貧血に近い状態なのかもしれない。なんだか目もチカチカしてきた。
体調不良で返事もろくにできなくなっている響子の耳元で、守保は辛抱強く繰り返した。
「笹生さん、安心してください。私の方ですぐ男性に連絡をとってみます。何かありましたら……いえ、何もなくても必ずご連絡しますから、電話番号を教えていただけますか? 念のため、こちらの電話番号もお伝えしておきます。私はオフィスにいないことが多いので、携帯電話の方でかまいませんか?」
この後、自分が守保とどんなやりとりをしたのか、響子は何も覚えていない。
あ、気持ち悪い、これはまずい、としゃがもうとしたが時すでに遅く、響子はへなへなと横座りするような格好でフローリングの床に崩れ落ちた。
響子は暗いトンネルの中を歩いていた。風はなく、寒くも暑くもない。足音が聞こえないので下を見ると、足元は闇に埋もれ、靴を履いているのかどうかすらわからなかった。五感がいずれも鈍くなっているようだ。コンクリのトンネルの中はだいたい五メートルおきに外灯がとりつけられていたが明るさは足りず、自分の指先すら見えない不明瞭な視界がつづく。
やがて一つの外灯の真下で何かがうずくまっているのが見えた。たしかな予感がして、響子の足が速まる。水を掻いているようで進みはのろい。相変わらず足音はしない。響子がぬるぬる近づくと、予想通り、オレンジ色の光に照らされた地面にフクが伸びていた。
白い毛に黒いブチ模様。顔も丸く、目も丸く、心も丸く、と何もかも丸い猫が地面にぺたりと体を投げ出すと、『豆大福』にしか見えない。星形の青い花の下でミィミィ鳴いていた生まれたてのフクはサイズまで本物の豆大福とそっくりで、「食べちゃいたいくらいかわいい」という言葉がぴったりの存在だった。
だからあまり──というか誰にも──知られていないが、フクの正式な名前は、『マメダイフク』だ。呼びかけるには長すぎたその名前は、すぐ名付け親の響子自身によって『フク』と縮められ、終生そう呼ばれた。……終生?
「フク」
響子がおそるおそる呼びかけると、伸びたフクの右耳がピクンとゆれる。響子はそれを見て、「ああ、フクは死んでない」とホッとした。
と同時に、「これは私の夢の中だな」と思い当たる。
フクが死んでから、響子はほぼ毎日彼の夢を見ている。たいてい暗いところを響子が歩きつづけ、やがて豆大福のような格好で寝ているフクを見つける夢だ。名前を呼ぶと、フクは片耳やヒゲをピクピク震わせる。響子は「ああ、死んでない」と喜ぶ。フクが死ぬわけない。やっぱりあれは何かの間違いだったんだ。さあ、フクとの日々をやり直そう。
けれど、フクはけっして目をあけてくれない。そのうち、呼びかけへの反応が鈍くなる。何度も名前を呼び、体をさすり、抱きしめ、やがて響子は気づくのだ。
自分がまたフクとの別れの時間を経験していることを。
やわらかいものがかたくなり、あたたかいものがつめたくなり、生が死になり、目が覚める。「つらい夢から逃れた」とホッとできるのは一瞬のこと。すぐ現実のフクの不在が鈍い痛みとなってみぞおちに差し込まれる。後悔が頭を重くする。こんな繰り返しがもう一年近くつづいていた。
けれど、今日のフクは──というかフクの夢は──ちょっと様子が違っていた。
だんだんフクの反応が鈍くなるところまではいつもといっしょだったが、次の瞬間、トンネルの中を強い光が照らしたのだ。同時に轟音が鳴り響く。響子はとつぜんよみがえった五感で灰色の世界に色がついたような劇的な変化を感じ、反射的にフクを抱き上げてトンネルの壁にへばりついた。ほどなくして、わずか三両しかないオレンジ色の電車が現れる。電車は響子とフクのすぐ脇をゴオゴオと通りすぎていった。
何、この展開? 髪を頬にはりつかせて呆然と電車を見送っていた響子だが、無人だとばかり思っていた電車の窓から覗いた顔を見て叫ぶ。
「ペンギン!」
ほんの一瞬で見えなくなってしまったが、たしかにペンギンが胸をそらし、オレンジ色のくちばしをこちらに向けていた。
次の日、響子は風通しのいいコットンワンピースに麻のストールと白いスニーカーをあわせ、ふたたび電車に乗っていた。レンタカー会社の営業所に勤務し、公私共に車を使う機会の多い響子にしては高い頻度だ。昨日と同じ駅で乗り換える。ただし今日は美知の住む町につながる路線は使わない。熱中症対策に持ってきたボトルの水を飲みながら階段をのぼっておりて、一番はじのホームから油盥線という三両編成のオレンジ色の電車に乗った。夢と同じ電車で驚いたが、おそらく昨日の乗り換え時に視界に入っていた車両が夢に現れただけだろう。
熱中症で倒れた響子の意識を戻してくれたのは、守保からの電話だった。もう一つの黒のメッセンジャーバッグが遺失物保管所に届いたことをいちはやく響子に伝えようと、守保が夜の八時から十時まで、二十回ずつのコールを十五分おきに辛抱強くしてくれていたことを後から聞き、響子は恐縮した。また、守保の電話がなく、朝まで意識をなくしていたら……と考えると、独り暮らしのよるべなさが身にしみた。
もう一つの黒のメッセンジャーバッグだが、守保が中を確認したところ、やはり銀色の骨袋と白い陶器の骨壺が入っていたそうだ。
「これで、二人の乗客がまったく同じ骨壺と骨袋が入っている同じ色と型のメッセンジャーバッグを、同じ日の同じ時間帯の同じ路線に置き忘れる、という偶然が発生したことが明らかになりました。男性側に連絡したところ、持ち帰った骨壺は自分のではなかったとおっしゃっています。ただ、私どもにはどちらがどなたの骨壺なのかわかりかねますので、お手数ですが、お二人に遺失物保管所まで一度ご足労いただくことになりそうです」
男性は守保の急な要請にもかかわらず、翌日、自分が一度受け取ったメッセンジャーバッグと骨壺を持ってふたたび遺失物保管所まで出向くことを快諾したそうだ。物が物だけに、一刻も早い正しい回収を望んでいるのだろう。響子も気持ちは同じだ。会社には無理を言って有休をとることにした。
朝のラッシュが終わったばかりの車内は、すでにがらんとしている。その空きっぷりは、美知の家から帰る時の上り電車の比ではない。一両につき乗客が二組いるかいないかといったところだ。
響子はせっかくだから一番前の車両に移動し、ロングシートを独り占めした。上体をひねって窓の外を見ると、夏の太陽を映してきらきら輝く海と、朝から白い煙をあげる臨海コンビナートや巨大な石油タンクが目に飛び込んでくる。整備された広い私道を色とりどりの大きなトラックが行き交っていた。
油盥線は本線から分岐した支線と呼ばれる路線だ。沿線に住宅地はなく、海も遊泳禁止区域のため、乗客はコンビナートで働く人達か遺失物保管所に用のある者だけだと守保は言っていたが、工場マニアも多そうだ。同じ車両の後方で、重そうなカメラを首と両肩に三つもぶらさげ、子供のようにはしゃぎながら写真を撮っている中年男性二人組を視界の隅にとらえて、響子はそう思った。マニアとまではいかなくても、いわゆる工場写真が好きな人は多いと聞く。いつか書店で写真集も見かけた。
こんな時でなきゃ、私ももっと車窓を楽しめるのに、と響子は残念に思いながらシートに深くもたれて、ボトルの水をがぶりと飲んだ。
(続く)
★今作の続編となる『ペンギン鉄道 なくしもの係 リターンズ』が12/6(木)に発売開始!
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