海外で高く評価され、作品が高く取引される村上隆。彼は、他のアーティストと何が大きく違ったのか? 稀代の芸術家が熱い情熱と冷静な分析を持って綴った名著『芸術起業論』『芸術闘争論』の待望の文庫化を記念して、『芸術起業論』の一部抜粋してお届けします。
なぜ村上隆の作品は一億円で売れたか
芸術は社会と接触することで成立します。
芸術作品単体だけで自立はできません。観賞者がいなければ成立しないものです。もちろん作品販売もお客様あってのものです。
どんな分野でも当然の営業の鉄則が、芸術の世界でだけは「なし」で済むなんていう都合のいいことはありえません。
ぼくはいつも、身も蓋(ふた)もないプレゼンをしてきましたが、おそらく、身も蓋もないから社会と接触できたのです。つまり、「日本のアートは漫画オタクにある」とか「ファッションとアートのコラボ」とか。「アートは単純なルールで解釈可能だ」とか。
「それは、ないだろう!」
そういうあからさまなことをやり、周囲から嫌われていくけど、嫌われる張本人にすれば「身も蓋もないことをやったもの勝ち」だということは、もう、はっきりとわかってやっているのです。
身も蓋もないものにはお客さんが乗れる雰囲気があるのです。
熱量のある雰囲気がなければお客さんはつかないというのは、自明の理なのです。
「ムラカミくんさ、ヨロシクやってるみたいだけど、カネだけがアートじゃないんだぜ」
「おい、ムラカミ、抽象表現主義をパロディするんじゃねえ!
ターナーの国のイギリスがそんなに薄いはずがないだろう? もっと勉強してこいや」
ターナーの国? うちも北斎の国じゃん、とぼくなんかは思うんです。
既にあるものをありがたがりすぎたり、品のいいものだけをやりすぎたりしていれば、アタマ一つ抜けだせないのは当然です。
既存の流派を真似(まね)すればその中に埋没します。
保守本流の西欧の絵画の宗派と相対した時、ぼくは新興宗教を作ったようなものです。叩たたかれるのも目立つのも当たり前、です。
「ムラカミ、ちょっとイイ? あのさ、俺、おまえと絶交さしてもらうわ。
絵画をバカにすんのもいいかげんにしろよ。
キャラを大きく描いて、ペインティングでございなんて。
安易すぎるというか、アートをバカにしてるっていうか。
おまえには、何を言ってもわかんねぇんだろうな……という意味で絶交」
まぁ、身も蓋もないことをしていますから、展覧会場で絶交されたりするのですけど。
二〇〇六年五月、ぼくの作品にオークションで一億円の値段がつきました。二〇〇三年に他の作品が六八〇〇万円で売買されて以来、ぼくの作品は「日本人の一つの芸術作品としては史上最高額の価格がついている」と語られていますが、こうした値段には理由も背景もありますし、ぼくには「すごく高額だ」とは思えません。
美術作品制作のコストは高くつくからです。
新しいものや新しい概念を作りだすには、お金と時間の元手がものすごくかかります。
お金や時間を手に入れなければ「他にないものをひきよせるために毎日研究をすること」は続けられません。
つまり、ビジネスセンス、マネジメントセンスがなければ芸術制作を続けることはできないのです。
ぼくの作品はまさにその傾向の一つだと思うのですが、なぜそういうことが起きるのか、というと「作品の価値は、もの自体だけでは決まらない」からでしょう。
価値や評価は、作品を作る人と見る人との「心の振幅」の取引が成立すればちゃんと上向いてゆくのです。
一作品一億円の価格を理解するには、欧米と日本の芸術の差を知っておく必要があります。
欧米では芸術にいわゆる日本的な、曖あい昧まいな「色がきれい……」的な感動は求められていません。
知的な「しかけ」や「ゲーム」を楽しむというのが、芸術に対する基本的な姿勢なのです。
欧米で芸術作品を制作する上での不文律は、「作品を通して世界芸術史での文脈を作ること」です。ぼくの作品に高値がつけられたのは、ぼくがこれまで作りあげた美術史における文脈が、アメリカ・ヨーロッパで浸透してきた証あかしなのです。
マルセル・デュシャンが便器にサインをすると、どうして作品になったのでしょうか。
既製の便器の形は変わらないのに生まれた価値は何なのでしょうか。
それが、「観念」や「概念」なのです。
これこそ価値の源泉でありブランドの本質であり、芸術作品の評価の理由にもなることなのです。
くりかえしますが、認められたのは、観念や概念の部分なのです。
西洋の芸術の世界で真の価値として評価されるものは「素材のよさ」でも「多大な努力」でもありません。
日本では好き嫌いで芸術作品を見る人が大半ですが、これは危険な態度です。主観だけで判断するなら、目の前にある作品の真価は無に等しくなってしまいます。
主観だけでは、わかりやすいもののみを評価することになってしまいます。それは時代の気分やうわさ等、不確定なものによって揺れ動く状態での判断になるからです。
客観で歴史を作ってゆく欧米の文脈からはかけ離れてゆきます。欧米の美術の歴史や文脈を知らないのは、スポーツのルールを知らずにその競技を見て「つまらない」とのたまうことと同じなんです。
「アートを知っている俺は、知的だろう?」
「何十万ドルでこの作品を買った俺って、おもしろいヤツだろう?」
西洋の美術の世界で芸術は、こうした社交界特有の自慢や競争の雰囲気と切り離せないものです。そういう背景を勉強しなければ、日本人に芸術作品の真価は見えてこないのだと思います。ええ、くだらない金持ちのザレ事ですよ。でもそれを鼻で笑いたければ、世界の評価基準に対して一切口出しをしないでほしいわけです。
例えば、ぼくの作品に六八〇〇万円の値段をつけてくれたのは八十歳近いアメリカの老夫婦で、既に会社を売って隠居されている方でした。
同じ作品の前の所有者は若いIT企業社長で「あなたの作品を売ったので若い芸術家の作品を百人ぶん買える」とよろこんでいました。
アメリカの富裕層には評価の高い芸術を買うことで「成功したね」と社会に尊敬される土壌があります。そういう人たちが、商売相手なのです。
富裕層が芸術作品を買うことを奨励する制度も法律もあります。
アメリカではビジネスに成功した人たちは社会に貢献してゆく義務感を持っています。
そうした成功者が社会貢献事業を行う選択肢の一つには美術館支援も含まれています。
芸術作品を購入して美術館に寄付するというわけです。
ただし趣味の悪いものを美術館に押しつけることを避けるために、美術館の学芸員はコレクターの作品購入に前もって助言したりしています。
コレクターはいいものを購入して自分自身をアピールできる上に「寄付した作品の金額が税金控除の対象になっている」というところが重要なのです。
これは日本とはまるで違います。
日本では固定資産として税金徴収の対象になる(だから芸術はひそかに所有される)ものが、アメリカでは税金控除の対象になるわけで、作品売買がさかんになるのも当たり前です。
「この作品は価値がある」と値踏みするコンサルタントも存在しています。富裕層は価値のある安全牌パイの作品を買うのですが、同時にコンサルタントは売買の現場で「作品の物語」を作りこんでいます。
コレクターとは基本的には悩むものほど欲しがるものです。
コレクターは売買に賭かけるので、金銭を賭けるに足る「商品の物語」を必要としています。
オークションハウスは、購入希望者たちと丁寧なランチミーティングを重ねてゆきます。
「あの美しい日本人の女の子のフィギュアのハートを射とめるのはいったい誰かしら?」
購買欲、征服欲、勝利欲など欲望を刺激する言葉で盛りあげるのもオークショナーたちの仕事です。
(『芸術起業論』「第一章 芸術で起業するということ」より)