京都大学在学時からカラスに魅せられ25年。カラスを愛しカラスに愛されたマツバラ先生が、その知られざる研究風景を綴った新書『カラス屋、カラスを食べる』を一部無料公開。愛らしい動物たちとのクレイジーなお付き合いをご賞味あれ。
※前回までのお話はこちらから。
なんのために糞を集めるのか?
チドリは忙しくトトト、トトト、と小走りに動き回る。その間に、頭を下げて餌をついばんでいるのが見える。立ち止まって足下を見てから「えい、えい」とつつく時と、離れた場所にタタタッと走り寄って地面をつつく時がある。時々、嘴を差し込んで探るような行動も見せる。これも分けて記録しておくと、採餌行動の違いがわかるかもしれない。だが、今日は全部同時にデータを取るのは無理だ。
いかん、また眠くなってきた。昔のパイロットがやったという、舌先で上あごの裏をくすぐる、という技を試してみる。なるほど、くすぐったいのと、舌を動かすのでちょっと目が覚める。独り言や歌というのも手だが、知らないうちに近くに人が来ていたりすると、非常に気まずい。
チドリは少し内陸側に入り込むと、石の間で立ち止まった。望遠鏡で見ているので、顔もよく見える。鮮やかな黄色のアイリングに縁取られた、アーモンド形の真っ黒な目が、ゆっくりと細められてゆく。私の見ている前で、コチドリは目を閉じた。
寝るなよお前は!
残念だが、私の心の叫びは通じなかった。こうなると方法は二つ。一つは我慢して、こいつが起きて動き出すまで、ひたすら寝顔を見ている。もう一つは、起きている奴を探してターゲットを切り替える。
腕時計を見ると、既に観察時間は1時間を超えている。仮に観察を開始する直前に糞をしていたとしても、平均的な間隔で言えば、そろそろ糞をしてもおかしくない。
よし、こいつを見ていよう。
幸いにして、チドリは5分ほどで目を開けて立ち上がった。いや、目を閉じていたといっても、両目を閉じて熟睡していたとは限らない。鳥は片目ずつ閉じて脳を半分休ませる、なんて器用なこともやる。右脳と左脳の分断が著しいため、例えば右目を閉じると左脳への視覚刺激がほぼ遮断されるからだ。それに、外敵の多い小鳥が落ち着いて寝続けることはない。仮に両目を閉じたとしても、数分に一度は目を開けて周囲を確かめる。
立ち上がったチドリは翼を広げてストレッチし、水際に行ってトトトト、と歩くと、ちょっと尻を突き出すようにして、プリッと糞をした。
やった!
望遠鏡をロック。対岸に消波ブロックの切れ目が見える、この角度だ。工具箱から糞採集キットを取り出す。小さなタッパーに10センチ角ほどに切ったアルミホイルと、小さなシールパックが入れてある。あと、忘れちゃいけないピンセット。
チドリが糞を落としたあたりに行って、しゃがみ込んで地面を探す。これは糞じゃない。これも違う。これは糞だが、古いからさっきのじゃない。よしこれだ! 濡れた砂の上の、直径2センチほどの白いしみ。真ん中には黒い不消化物がある。さんざん苦労したのに「中身」がない場合もあるのだ。最悪なのは、水の上に落とされる場合だ。そのまま流れて行ってしまう。
ピンセットで糞をすくい取り、アルミホイルに載せて、きちんと包み込む。油性マジックで日付と時刻、砂州の番号、チドリの種類を書き込む。こうやっておかないと、いつのなんの糞だかわからなくなってしまう。
これをシールパックに入れ、それに日付や種名などの情報を書いて、タッパーに収めた。よし、サンプル1個ゲットだ。
……サンプル、いっこ。
なんのために糞を集めるのか?
ちょっと気が遠くなった。だが、仕方ない。今日の調査は全て連動しているのだ。
まず、チドリの糞から、「チドリが何を食べているか」を調べる。続いて、砂州に仕掛けたトラップで「砂州にはどんな昆虫が、どれくらいいるか」を調べる。「昼と夜で昆虫に差があるか」も調べる。水際の水生生物は今日は調査しないが、来週に人手を増やして調査予定だ。さらに、チドリがどの範囲を使い、どうやって餌を取っているかを調べる。そして、チドリが夜も餌を取っているかどうか調べる。
全部がうまくいけば、「砂州にはこんな生物がいます。水辺にはこういうの、内陸にはこういうのがいて、昼と夜ではこう違います」という背景がわかり、「その中でチドリはこのように採餌しています。汀線での採餌がメインですが内陸でも食べていることがあり、夜間も活発に採餌しています」と言えて、さらに「糞分析の結果はこうでしたので、チドリが実際に食べているものは、行動観察の結果とよく一致しました」あるいは「行動だけではわかりませんでしたが、餌品目にはこのような特徴が見られました」なんて言えるはずである。
さらには昆虫から鳥類へのエネルギーフローがざっくりと計算できて、それが理論的な予測と一致する──まあ、完全に一致しなくても、1桁はズレない程度の精度にまで持って行ければ素晴らしい。河川環境を横断的に、生態学から行動学まで連繋しながら理解しようという調査プロジェクトの一部だからだ。
問題があるとすれば、そのためにはここで、24時間の調査に耐えなきゃならないこと、そして、やったからって結果が出るという保証はないことである。
化学的にも生物学的にもNG
本格的に暑くなって来た。時間と残量を見比べながら水を飲む。このペースを守っている限り、なんとか余裕はある。だが万が一不足するようなことがあれば、自転車でホームセンターまで走って水を買わなければならない。その間、調査を中断するのが惜しい。
一度だけ、完全に勘違いして、必要量の半分しか水を持たずに調査に来たことがある。あの時は途中で気付いてケチケチ飲んでいたが、だんだん汗も出なくなり、頭がボーッとして足に力が入らなくなった。完全に熱中症である。腹立たしいことに、目の前には毎秒十数トンの水が流れる川があるのに。
だが、見た目に汚濁していないとはいえ、この水をそのまま飲んでいいかどうかは別だ。周囲は農地と市街地だし、上流にはそこそこ大きな町もあるから、何が流れ込んでいるかわかったものではない。水質を調査した班が「化学的にも生物学的にも、そのままでは飲まない方がいい」と断言したくらいだ。まあ、そのへんの子供たちが水遊びしても問題ないレベルではあるが、「遊んでいて口に入ることがある」のと「飲料用としてゴクゴク飲む」のとではわけが違う。
せめて水をすくって腕にかけたり、濡らしたバンダナを頭に載せて冷やしたり、濡れタオルを首にかけたり、飲まずに冷やす工夫をした。だが、午後3時過ぎに、喉が灼やけるようにカラカラになって、ついに肚はらをくくった。ここで熱中症や脱水で倒れたら即死だ。水を飲んで腹を壊すとしてもしばらく時間差はあるし、いきなり死ぬこともあるまい。私はなるべく淀よどんでいなそうな場所を選んで、水をすくって飲んだ。
口に含んだ途端、なるほど、浄水処理された飲める水ってのは超絶ハイグレードなんだな、と実感できた。だが、これはもはや薬と思うしかない。私は生なま温ぬるくて生臭い水を飲み下した。幸い、熱中症でぶっ倒れもせず、腹を壊して寝込みもしなかった。だが、あれ以来、水の量にはより注意を払うようになった。
カラス屋、カラスを食べる
カラスを愛しカラスに愛された松原始先生が、フィールドワークという名の「大ぼうけん」を綴ります。「カラスの肉は生ゴミ味!?」「カラスは女子供をバカにする!?」クレイジーな日常を覗けば、カラスの、そして動物たちの愛らしい生き様が見えてきます。
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