嗚呼なんというお粗末! 日本の憲法が、コピペによる捏造だったとは! ! 日本への怨念と復讐心に燃えた「虚飾の女神」ベアテ・シロタとは何者だったのか?
「日本国憲法は“押しつけ憲法”だから全面改憲」「国民の支持を得てきたから護憲」といった論争もありますが、そもそも日本国憲法が作られたその実態は――。GHQ民政局で日本国憲法の起草に関わり、90年代頃から日本で突如、「男女平等条項の起草者」「戦後民主主義の女神」と注目されたベアテ・シロタ・ゴードン。憲法の門外漢だった当時22歳の若いベアテに本当に起草ができたのか、という素朴な視点から日本国憲法の成り立ちを解き明かした『日本国憲法の真実 偽りの起草者ベアテ・シロタ・ゴードン』(高尾 栄司著)から、試し読みをお届けします。
二〇一六年二月二十九日、オーストリア、ウィーン・ヴェーリンガー通り五十八番の扉前に立っていた。かつて、この木製扉のある建物には、リヒャルト・シュトラウス、クルト・ヴァイル、アルマ・マーラー等文化人や芸術家たちが、知的な会話と情報そして美食を求めて集まったのだという。一九二一年九月二十日、結婚した二人の新居はサロンとなり、新妻はピアニストの夫を守り立て世間に宣伝するため、お手伝いさんと仕込んだウィーン料理やロシア料理で客人をもてなした、と彼らの一人娘は回想録に書いている。現在、両隣は、女性下着店、無国籍装飾店になっていた。そこで、店のドアを開け、「レオ・シロタ」というピアニストがここに住んでいたのを知っているか、そう訊いてみたところ、どちらの店主も知らなかった。しかし、こここそが、日本と関係を持つ女性が育った家だった。
ベアテ・シロタという名の女性は、この建物内で五歳半まで育つと、両親と日本へ向けて旅立った。彼女は、「ウィーンでの生活については何も憶えていない」(The Japan Times 13-1-2013)。日本にやって来ると、カルチャー・ショックでそれまでの記憶が全て消されたと語っている。
ヴェーリンガー通りから、私はユダヤ博物館に向かった。ベアテの父親レオ・シロタの資料を探すためである。ところが、そこに関係資料は一点もなかったので、同館内のユダヤ書店に行ってみた。ここでも「レオ・シロタ」という名は見つからなかった。音楽書籍専門店を紹介され、そこで、「レオ・シロタ」「ピアニスト」で探してもらったが見当たらない。彼は著名なユダヤ人ピアニストであることを告げ、ヘブライ語で書かれたユダヤ人音楽関連書籍からも探してもらった。しかし、書店員から「見つからない」と宣言されてしまったのである。
ある音楽研究者によれば、ベアテの父親の本名は、「レイブ・グレゴローヴィッチ・シロタ」だという。ところが、私が彼女の出生証明書をウィーンのユダヤ公文書館で入手したところ、父親名は「レオ-レイブ・シロタ」となっていた。日本では、「レオ・シロタ」であった。なぜ彼は、いくつもの名前を使って生活をしていたのであろう。
ウィーンは、ユダヤ人がヨーロッパで一番多く住んだ都市だった。一九一八年以降、ロシアから多数のユダヤ人が流れ込み、ベアテの育ったヴェーリンガー通りも、ロシアから逃れてきたユダヤ人が多く住んでいたという。
五歳半だった女の子は、その後来日し十年間を過ごすと、米国に渡り、「米国版東京ローズ」として対日工作に従事し、終戦直後に再来日する。そして、当時二十二歳だったベアテは再来日後わずか一か月足らずで、現行の日本国憲法起草に参加したのである。
では、私がなぜこのテーマに取り組むことになったのか。直接のきっかけは、ベアテと同時代を生きた人物から提案されたことにある。日本共産党書記長徳田球一の初代秘書として寝食を共にし、後に日本共産党を除名され、日中貿易に生きたその人物は、私の前著を読むと、彼自身が強く関心を寄せていた日本国憲法に取り組むようにと私に告げ、その後間もなく世を去った。
私も、日本国憲法がGHQからの押し付け憲法であること、それがGHQ本部で秘密裏に作成されたものであることはかねてから気になっていた。そして、憲法が国家、国民の根本をなす大切な基本法であることを思うとき、日本国憲法だけが金科玉条として一指も触れられずに七十年間奉戴され続けてきたことに危機を感じてきた。さらに、ノンフィクション作家として長年にわたり海外取材を続けてくる中で、欧米民主主義と日本の民主主義の在り方の違いにも疑念を持ち、その憲法がどれだけ国民自らの手で作られたものか否かで、その国の民主主義が決まる、と確信するに至っていた。
今日の日本を取り巻く国内、国際情勢が、一九五〇年代の米ソ二項対立構造の時代とは異なり、予測不能なカオス的危機状況にあるのを目の当たりにし、国民が自国の安全保障について関心を持って自覚的に危機に臨もうとするとき、拠って立つ国の基本法(憲法)が重要なのは言(げん)を俟(ま)たない。このようなとき、私は日本国憲法が制定されるに至った真実の姿を、国民一人一人に知らせなければならない、と思ったのである。
一九四六年二月四日から九日間、GHQ司令部民政局で日本国憲法の起草作業が行われた。その作業に参加した米国人二十数名の中に、ウィーン・ヴェーリンガー通り五十八番から五歳半のときに来日したベアテ・シロタもいたのである。
彼女はその後、日本のテレビメディアなどで、男女平等条項の起草者として紹介されると、戦後民主主義の「女神」のような存在として称賛される。日本国憲法の骨子となる人権条項は、当時二十歳そこそこだったベアテ・シロタの起草になるものだということも、日本の主な憲法研究者・学者の間で「常識」化された。なぜ、一介の、憲法には門外漢の若い女性が、憲法起草委員会のキーパースンとして受け入れられたのか?
これを不思議に思い、この人物が有名になったプロセスをつぶさに調査してみると、Wikipedia「ベアテ・シロタ・ゴードン」に記されている数々の美談の裏には、全く別の契機があることが判明したのである。
※試し読み、続きます。
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