12月13日に初の自伝『何者でもない』を刊行したラッパーの般若さん。
話題沸騰&売れ行き好調。発売4日にして早くも重版が決定しました。SNSなどで「涙が止まらない」「眠れなくなるほど一気読み」「自分を奮い立たせてくれる1冊」と熱い感想が溢れています。
Testosteroneさんとの共著で、自伝と同じ日に発売された『筋トレ×HIPHOPが最強のソリューションである』もドトンと重版。
勢いに乗る般若さん。ストイックに体を鍛える般若さん。でも、少年時代は今の彼からは想像もできないほど、内気だったそうです。彼は一体どんな少年だったのでしょうか。
重版を記念して、『何者でもない』第一章の抜粋をお届けします!
少年時代、
ねじれた感情だけを
溜め込んでいった
殺す。
初めてそういう感情を抱いたのは、小学校一年生の頃だった。
当時、学童保育に通っていた俺は、一学年上の男子から結構ハードないじめを受けていた。
小学校一年生と二年生なんて、大人からすればどちらも「かわいい子供」かもしれない。でも、自分が小学生だった時のことを思い出してみてほしい。それくらいの年齢だと、一学年の差が腕力の違いに直結する。叩かれれば、泣きたくなるほど痛い。しかも相手は複数、こっちは一人。勝てるわけがない。
俺が普通にしていても、何かが気に障るのか、それともただ単に面白がっているだけなのか、ぶっ叩いてくる。並んでいる時に「一歩前に出ている」と言ってはぶん殴られ、「生意気だ」と言っては蹴っ飛ばされた。ある時は、みんなが楽しそうに遊んでいる公園のプールで、思いっきり沈められた。本気で死ぬかと思った。
いじめの理由なんて、あってないようなもんだった。奴らからすれば何かあるんだろうけど、俺にはわからなかった。もしかしたら、母ちゃんに切ってもらっていた髪がおかっぱだったからなのかもしれない……。写真でその頃の自分を見ると、「こいつ、だいぶ攻めてるな」と思うくらいに無視できない髪型ではある。
理由はさておき、子供同士のじゃれあいという領域を超えたそれは、今にして思えば完全に暴力だった。しかも、大人が見ていないところでやられた。誰にも気づいてもらえない。誰にも助けてもらえない。
俺は、標的にされていた。しかも、ほとんど毎日続いた。二年生になっても、三年生になってもそれは終わらなかった。子供の頃の一年間なんて永遠にも思えるくらい長い。学童保育に通っていた時期を思い返すと、「とにかくずっといじめられていた」という記憶ばかり蘇ってくる。
子供の世界は狭い。自分が生きている外側に、別の世界があるなんてことも知らない。俺は、自分が見えている範囲の中で生きていかなきゃいけないことにうんざりしながら、ただただ耐えていた。
親に言って解決してもらうとか、そういうことを考えたこともなかった。同級生との関係は悪くなかったけど、相談はできなかった。元々そういう性格なのかどうかよくわからないけど、今でも俺は問題を一人で抱える傾向がある。
とにかく、絶望しながら耐えていた。
怒りの感情はもちろんあった。ただ、やり返すことはできなかった。自分が誰かを叩くなんて怖かったし、やり方もわからなかった。
一人で帰る道すがら、悔しさを噛み締めながら、
──あいつら、殺してやる。
というねじれた感情だけを溜め込んでいった。想像の世界でそいつらを殺すことだけが、唯一できる抵抗だった。
溜め込んだ感情は、後々だいぶ派手な形で爆発することになる。
一日の始まりは、
寂しさの
始まりでもあった
そんなふうにねじれた少年だった俺が育ったのは、東京都世田谷区。
三軒茶屋駅から徒歩圏内に家があったと書けば、都会育ちのお坊ちゃんと思われるかもしれない。
確かに都会ではあるんだろう。でも、一九八〇年代から九〇年代中盤くらいまでの三茶は、今よりも混沌としていて、色んなものがごちゃ混ぜになった街だった。少なくとも、「洗練」とか「オシャレ」とか、そういう言葉が似合う街ではなかったように思う。今だって、駅からちょっと入った住宅街を歩けば、「ホントに現代?」と思えるような風景がちらほらある。三茶なんて、所詮はそんな街だ。
ホームレスとサラリーマンが同じ道を歩いていても別に違和感を覚えなかったし、昼間から酒飲んでるおっさんなんてそこら辺にいた。今では若い子らが立ち飲みしていて随分華やいだ雰囲気になったけど、「三角地帯」と呼ばれるエリアは近寄りがたい怪しげな雰囲気が漂っていて独特だった。あと、今では考えられないけど、ロマンポルノ系の映画の看板とかが普通に目につくところにあった。そんな「教育上よろしくない景色」が俺の原風景になっている。
街の景色が混沌としていたのと同じように、各家庭の事情も色とりどりだった。
さすが世田谷というべきか、金持ちも普通に多かった。でもその一方で、俺みたいに片親で家が貧乏でという奴も多かった。
貧富の差が激しい街。だから、幼心に貧乏がこたえる。あの街でサバイブするのはなかなか骨が折れることだった。
九〇年代に入ってから三宿あたりを特集している雑誌を目にする機会が増えたけど、その近くにある団地に住んでいる奴の多くはハードな生活環境で暮らしていた。三宿がオシャレとか言われることにいまだに慣れないのは、そういう奴らと交流していた経験があるからだ。
俺は貧富でいうと「貧」の側だった。
親父がいなかったから、母ちゃんは父親役もやらなきゃいけなくて大変だったと思う。今でこそ感謝の気持ちが強いけど、子供の頃は「なんでおもちゃを買ってくれないんだよ」などと不満に思うことも多かった。
母ちゃんは毎日忙しそうだった。AK–69と一緒に作った「One Way, One Mic, One Life」という曲で「家と職場が一緒の借家」というリリックを書いたけど、それは嘘じゃない。家は保育所を兼ねていた。しかも、戦前から建っているような古い家だった。
朝になると、とある病院に勤めている看護師さんの子供がうちにやってくる。賑やかな朝が始まる。それと同時に、母ちゃんは俺の相手だけをしていられる状況じゃなくなる。
一日の始まりは、寂しさの始まりでもあった。
小学校に上がる前、俺は保育園に通っていて、そこは家から徒歩十分くらいのところにあった。夕方になって、みんなの親が迎えにくる。一緒に遊んでいた友達が、一人帰り、また一人帰り……。
俺の母ちゃんが迎えにきてくれるのは、友達のほとんどが帰ったくらいの時間帯だった。明るかった夕方が、暗い夜に変わっていく。母ちゃんを待ちながら一人で遊ぶ保育園の砂場には、猫のうんこが転がっていた。
母ちゃんは、俺を育てるために必死に働いてくれた。だから、寂しいとか言ってはいけないと思っていた。
母ちゃんが迎えにこられない日に、一人で家に帰ったこともある。三軒茶屋の栄通り商店街というところをトボトボ歩いて帰る五、六歳の俺。友達が父ちゃんとか母ちゃんとかと一緒に帰っていく姿を見て、羨ましく思ったことなんて数え切れないほどある。
母ちゃんと一緒に歩く栄通り商店街は明るくて賑やかで楽しげに見えたけど、一人で帰る時は全く別の道に思えた。強がって平気なフリをして歩いていたけど、実際はめちゃくちゃ寂しかった。
希望を持って明るく毎日を生きている少年ではなかった。内気で、運動神経も良くなくて、しかもデブだった。保育園から小学校低学年の頃にかけての俺は、まだ生きていなかった。
そんな俺を、いじめっ子達は見逃してくれなかった。
挫折や敗北を
知ってる奴のほうが
強くなれる
──失明する……。
そう思った。あれは確か、小学校三年生の頃の出来事だ。
ある日、近所の公園で遊んでいた俺は、いつものように一学年上の奴らに見つかった。
「チャンバラやろうぜ」
んなもんやりたくねえよ……と思いながらも反抗はできない。落ちている木の枝だか棒だかを拾って仕方なくチャンバラを始めたはいいけど、奴らは三~四人で俺ばかり攻撃してくる。
もちろん、楽しくない。攻撃はエスカレートしてくる。しまいには、木の枝が思いっきり俺の目に刺さった。
普通、そうなったら「チャンバラ」は終わる。確かに「チャンバラ」は終わった。でも、代わりに始まったのは何だと思う?
「親に言うなよ」
そんな言葉とともに、ボコボコにされた。「マジか、こいつら」ってくらい、ばっちばちにやられた。
翌日も目はよく見えなくて、さすがに母ちゃんに事情を話して病院に連れていってもらった。数ミリずれていたら失明していたらしい。あの時、母ちゃんはめちゃくちゃ心配しただろうな。俺も今は人の親だから、あの時の母ちゃんの気持ちが痛いほどわかる。
目に光をなるべく当てないようにと医者に言われ、それを聞いた母ちゃんは、俺にサングラスを買ってきた。子供の顔には大きすぎるそのサングラスをかけてみたら、マイケル・ジャクソンみたいだった……。
「明日からこれで学校行くの?」
「そうよ。仕方ないじゃない。先生が言ってたでしょ」
二週間くらい、サングラスをかけて学校に通うことになった。事情を知らない人からすれば、謎すぎる小学生。学校でもみんなに見られるから恥ずかしいという感情もあったけど、それよりも「あいつら、ぜってえ殺す」って思いのほうが強かった。そろそろ限界がきていた。
今の俺だけを知っている人は、こういう過去があったことを意外に思うかもしれない。でも、事実として俺はいじめられていた。その経験は暗い過去ではある。だけど、挫折や敗北を知っている奴のほうが優しくなれるし、強くもなれると俺は思っている。
そして、大人子供にかかわらず、苦しい時期には救いやヒーローを求める。この頃の俺もそうだった。
──なんでこんないじめられるんだろう?
──家が貧乏だからかな?
──それとも太ってるからかな?
──言いたいことを言えるようになるにはどうしたらいいんだろう?
そんな悩みを抱えていたこの時期に、俺は音楽という救いに出会った。長渕剛というスーパーヒーローに憧れを抱くようになっていった。
(『何者でもない』「#1 生い立ち」より)