自伝『何者でもない』、Testosteroneさんとの共著『筋トレ×HIPHOPが最強のソリューションである』が売れ行き絶好調の般若さん。12月19日には筋トレトレーニングアルバム『IRON SPIRIT』も発売するなど、リリースラッシュが続いています。
勢いは止まらず、ついにTwitterを開始(@Hannya_Tokyo)。記念すべき初回ツイートはまさかのフリースタイルでした。どこまでもラッパーであろうとするストイックな姿勢がたまりません。
そもそも彼はどのようにして日本語ラップと出会い、のめり込んでいったのか。ラップと出会った高校時代の般若さんのことが書かれている『何者でもない』第二章から一部を抜粋してお届けします。
「どうやって日本語で
ラップしてんの?」
俺はあいつに聞きにいった
ターンテーブルを手に入れた俺は、DJの練習をしながらひたすらバイトをして、金を貯めてはレコードを買いまくっていた。
今ならインターネットで買えるし、何ならYouTubeで済ませればOKなのかもしれないけど、当時はとにかく店に直接行くしかない。足で情報を取ってくる時代だった。よく学校をサボって渋谷のManhattan RecordsとかCISCOとかに行っていた。
下北沢にもよく行った。今の下北沢はちょっと雰囲気が変わって綺麗になっちゃったけど、当時のあの街は古着屋とかレコード屋とかがめちゃくちゃたくさんあって、文化の発信地みたいなところだった。
部活を一所懸命やる高校生と、ヒップホップにハマる高校生。どっちが偉くてどっちが偉くないなんて線引きはない。大事なのは、どれだけ夢中かってことだと思う。あの高校でサッカーをやっていても、俺の場合は白けた目をして三年間を過ごすだけだっただろう。母ちゃんからすれば、家でデカい音を出すから嫌だったかもしれないけど、俺が主体的に取り組んだのはサッカーじゃなくて音楽だった。
地元の友達の中には、バイクに夢中になり始める奴も増えていた。原付を乗り回すくらいのことなら中学の頃からあったけど、そういう奴らが十六歳の誕生日を迎えて続々と中免(普通自動二輪免許)を取り始める。バイクの知識をどんどん吸収していく友達を見ながら、「すげえなぁ、よく知ってんなぁ」なんて思っていたけど、あれも「バイクが好き」っていう情熱があってこそだと思う。
当時よく溜まっていた公園が「駒繋公園」というところだったんだけど、源頼朝が馬を繋いだのがその命名の由来らしい。由緒正しいそんな公園で鳴り響くバイクの音と、ロックだヒップホップだの洋楽。近隣の人には迷惑だっただろうから申し訳なかったなと今にして思うけど、それが俺の青春の風景だった。
当時、俺はラップは英語でやるものと思い込んでいた。聴いていたのもアメリカのヒップホップばかりだったし、日本語でラップするなんて無理だと思っていた。
スチャダラパーが小沢健二とコラボした「今夜はブギー・バック」が流行ったり、EAST END×YURIの「DA.YO.NE」がブレイクしたりしたのが俺が高一とか高二の頃だったから、日本語でラップをする人達がいることを知ってはいた。知ってはいたんだけど、ハードコアもかかるような荒々しいクラブに行ったり、周りの友達が後に暴走族になるような環境で音楽を聴いたりしていた当時の俺は、もうちょっと毒のある感じのほうがカッコいいと思っていた。
そんな俺に転機が訪れる。
──え? あれって、隣のクラスのルミさんじゃ……?
その日は俺が通っている高校の文化祭だった。高校生のバンドが思い出作りのライブをするような、文化祭にありがちな浮かれた空気の中で、一風変わったライブをしている女の子がいた。
RUMI。この後、俺と一緒に「般若」というグループを結成することになる女性MC。彼女とはそれまで話したことはなかったんだけど、ちょっと目立つ子ではあったし同じ学年だし、顔と名前くらいは知っていた。
そんな彼女が、高校の文化祭でラップしていた。
しかも、日本語のラップ。
誰かの曲をカバーしているんじゃなくて、自分で作ったオリジナルの曲。パーティーっぽいノリの音楽ではなく、自己主張のための音楽っていう感じだった。
──マジかよ、なんだよあれ?
ライブが終わった後も、俺の中には衝撃が残っていた。とにかく気になって仕方なかった。自分のアイデンティティの根っこの部分にある何かが、「日本語ラップ」と小さな歯車で静かに噛み合った瞬間だったのかもしれない。
「どうやって日本語でラップしてんの?」
文化祭の数日後、俺はRUMIに聞きにいった。いきなり話しかけられて向こうはびっくりしていたけど、彼女は彼女でヒップホップの話ができる同級生がそれほどいなかったからなのか、色々と教えてくれた。
「……〝イン〟を踏む? 〝イン〟ってなに?」
笑っちゃうんだけど、当時の俺は「韻」が何かということさえ知らなかった。そんな俺をRUMIは笑ったりしなかった。それどころか、キングギドラやライムスター、雷なんていうヒップホップグループのことを教えてくれた。後日、何枚かのCDを貸してくれたりもしたんだけど、その中でも俺はMICROPHONE PAGERにどハマりした。『DONʼT TURN OFF YOUR LIGHT』というアルバムを聴いて、「このTwiGyって人、めちゃくちゃかっけえな」と家でひとり興奮していた。
ハタから見たら独り言
俺はそうやって
フリースタイルの練習を始めた
俺が通っていた高校で日本語ラップをやってる奴なんてほとんどいなかった。だから、興味を持ってる奴とは自然と交流するようになる。そんな友達の中の一人にタクという奴がいて、俺は彼に「悪霊」というMCネームをつけた。今考えると、どうして「悪霊」なんていうMCネームをつけたのか、そしてタクがなぜそれを了解したのかよくわからないんだけど……。
その悪霊と一緒に遊んだり、RUMIと一緒にMICROPHONE PAGERのライブに行ったりして、日本語ラップに対する俺のテンションは日増しに高まっていたけど、リリックをどう書くのか全くわからない。どうやってラップするのかもよくわからない。よくわからないことだらけだけど、やってみたい。
そう思った俺は、学校の屋上に出る手前の踊り場みたいなところで、カセットテープにダビングしたヒップホップのインストを流して、一人でフリースタイルの練習をすることから始めた。
俺は天才でもなんでもないから、最初っからうまくできるわけがない。何度も音楽をかけて、何度もフリースタイルでラップする。そして、それをひたすら毎日やる。下手でも何でもいいから、とにかく始めてみた。夢中になりすぎて、廊下を歩きながら一人でボソボソとラップしたりもしていたから、学校で俺を見た奴は「こいつ、おかしーんじゃねーか?」と怪しんでいたと思う。
初めて自分でラップして曲を作ったのは、高二の終わりとかそれくらいの時期だった。どっかからマイクをゲットした俺は、家で録音したその曲をRUMIに渡した。何のトラックでラップしたかはよく覚えていないし、今聴き返したら死ぬほど恥ずかしくなる代物ではある。でも、そんな俺の曲を聴いてくれたRUMIは、
「うん、悪くないよ。一緒に曲作ろうよ」
って言ってくれた。
大げさかもしれないけど、それまでロクに褒められたことのない俺が、自分で作った曲を肯定してもらえた喜びってのは、ハンパなかった。俺はひねくれ者ではあるけど、「一緒に曲作ろうよ」ってストレートに言ってもらえて燃えないはずがない。
RUMIと一緒に曲を作る日々が始まった。俺はバイトして貯めた金で買ったレコードを死ぬほど持っていたし、家にはターンテーブルもあったから、曲作りの作業は俺の家でやることになった。最初に作った曲がどんなだったか忘れたけど、Mobb Deepの曲でラップしたような記憶がある。
こうやって俺は、日本語でラップする魅力に取り憑かれ始めた。DJも面白かったけど、ラップを通じて自分を表現するという行為にどんどんハマっていった。
地元の友達は、いよいよ本格的に暴走族を始める時期でもあった。どっかと揉めたあっちで喧嘩したと、大変そうだった。俺にアディダスのスニーカーをくれた友達がその中心だったんだけど、俺はそいつに言われたことがある。
「お前は音楽やれよ。そっちのほうが狂えるよ、お前は」
あの言葉を、俺は忘れない。人より優れたものが何もない俺が、「もしかして、これだったらいけるかも」って思えたのがラップだった。
そんなこんなでラップに夢中になっていった俺は、高二の終わりに数学の先生に呼び出された。話を聞いてみると、進級が危ないという……。
──マジで……?
ラップのことで頭がいっぱいになりすぎて、勉強のことはまるで考えてなかった。そもそも小学校三年生くらいの算数の時点で道に迷い始めた俺だ。数学なんて、最初から盛大に迷子みたいな状態だった。もちろん、高校数学についていけるはずもない。
俺の学年には、ダブった〝同級生〟もいた。同級生ながらも一個上のその人には、みんなかなり気を使って接している様子。
──俺、あれになるの? 嫌すぎるんだけど……。
そう思った俺は、先生に聞いてみた。
「……お、俺、どうしたらいいすか!?」
「次のテストで二十点取れ。提出物とかも全部出せ。じゃないと三年に上げてやることはできない」
「わ、わかりました。二十点取ります!」
それから俺は猛勉強した。授業も真剣に聞いた。ノートも取った。「sin」「cos」「tan」が、サインコサインタンジェント? 一体これはなに? と思いはしたものの、俺の人生であれほど必死に数学の勉強をしたことはない。必死さで言えば、高校受験の時を余裕で凌ぐほどだった。
迎えたテストも俺なりにやり切った。あんなに勉強したわりには、わからない問題が多かった気もしたけど、別に「一〇〇点取れ」と言われているわけではない。二十点なら何とかなる……はず!
後日、俺は数学の先生にまた呼び出された。先生の机の上には裏返しにされた俺の答案用紙。審判の日が、ついに来た。厳粛な顔をした先生が答案用紙を表に返す。
〇点。
──あ~ダブったよ~……母ちゃん、俺、ダブったよ~……
自分の頭の悪さを笑いたくなった。むしろ二十点取るより難しいんじゃないかってくらい、一問も正解していなかった。何のギャグだよって感じで笑いを噛み殺しつつ一応神妙な顔をしていた俺に、先生は言った。
「武田……俺はお前が頑張ってたこと知ってるよ」
──今さら励まされても……。
「しっかり提出物も出したし」
──だってそうしないと、ダブっちゃうじゃないすか……。
「〇点だけど……」
──そんなはっきり言わないで!
「進級させてやるよ」
「……せ、先生!」
こうして俺は無事に高校三年生になった。
RUMIと作った曲が、俺の人生を大きく方向転換させていくのは、その直後の出来事だった。
ZEEBRAに渡した
デモテープ
俺達は興奮していた
RUMIと俺は「般若」というグループ名で活動を始めていた。今、俺が般若というMCネームで活動しているからややこしいんだけど、「般若」は最初二人だった(後にDJのBAKUが加わって三人で動くようになるんだけど、その経緯はまた後で書く)。グループで活動するにあたって、俺はYOSHIと名乗るようになった。ちなみに、「般若って名前にしよう」って言ったのは俺で、RUMIはそんなに嫌がることもなく「いいよ」って言ってくれた。
活動していると言っても、いきなりライブができるわけもない。「まずは自分達の曲だ」ってことで作り始めたのは前に書いた通りなんだけど、二曲くらい作ったところで俺達はそれをデモテープにして常に持ち歩くようになった。
このデモテープが、俺とRUMIの人生を切り開くなんて、もちろんその時は思ってもいない。
当時、日本語ラップは若い奴らの間で少しずつブームになりつつあった。テレビの音楽番組で流れるというような状況ではなかったから、知らない人は全く知らなかったかもしれないけど、一九九五年にアナログ盤が発売されたLAMP EYEの「証言」なんて、レコード屋に行列ができてあっという間に完売するくらいの勢いだった。
日本全国に、無名のラッパーが続々と誕生し始めていた。みんな、自分のラップを聴かせるチャンスを狙ってギラついていた。俺もRUMIもそんな中の一人だった。
一九九六年五月三日。
日にちもはっきりと覚えている。この日、川崎クラブチッタ(当時)で、「鬼だまり」というヒップホップイベントが開催された。出演陣は「豪華」の一言。キングギドラがいて、MICROPHONE PAGERがいて、雷がいて、BUDDHA BRANDがいて。
当時人気のあったグループはほとんど出たんじゃないかってくらいすごかった。会場の熱気もハンパない。身動きも取れないくらい客が入っていた。
錚々たるメンツのライブが終わった後、YOU THE ROCK★が言った。
「今からフリースタイルやるから、やりたい奴はステージに上がってこい!」
俺は即座に動いた。俺の前にいた奴がほんの少し邪魔だったので、ちょっとだけぶん殴ったような気もするけど、とにかく気づいたらステージに上がってラップしていた。RUMIと一緒に曲作りを始めてから一ヶ月とかそこらだったから、まだまだ下手くそだったかもしれない。でも、そんなチャンスは滅多にあるものじゃないし、「やらない」って選択肢はなかった。
ステージの上から見るフロアには、人が溢れかえっていた。
──あの人達は、こんな景色を見ながらライブしてんのか……。
そんなことを思った。
ステージにはRUMIも上がってきていてフリースタイルでラップしていた。そしてRUMIはフリースタイルを終えた後に、ステージの端っこで座って見ていたZEEBRAに近づいていって、俺達「般若」のデモテープを渡したらしい。
帰り道、それを聞いた俺は浮かれた。「デモテープ渡せてよかったよな」とか「てか、ZEEBRAってやっぱオーラあったな」とか「あんな大人数の前でやれてよかったよな」とか、高校生らしい会話で盛り上がりつつ家に帰ったことを覚えている。とにかく、大勢の前でラップがやれたということに、俺もRUMIも興奮していた。
「東京FMの者ですが」という謎の電話が俺の家にかかってきたのは、その二日後だった。
ラジオ番組「HIP HOP NIGHT FLIGHT」
に電話出演したのは、
ラップを始めてまだ一ヶ月そこらの時だった
日曜日の深夜だった。
俺は寝ていた。確か一時くらいだったように思う。
「あんたに電話なんだけど」
母ちゃんに起こされ、そう言われた俺は、何が何だかよくわからないまま電話に出た。受話器の向こうで大人の男が喋っている。「HIP HOP NIGHT FLIGHT」という番組のスタッフだというその人は、
「番組に電話出演してくれませんか?」
とか言ってくる。こっちは寝起きだし、「電話出演」って言われてもよくわからない。しかも俺は、「HIP HOP NIGHT FLIGHT」が何なのか知らなかった。聞いてみるとYOU THE ROCK★がパーソナリティを務める生放送のラジオ番組だと言う。
「ラジオって聴けたりします? また電話するんで、ちょっと聴いてみてもらえますか」
とその人に言われた俺は、二時から始まるというその番組を聴いてみた。確かにYOU THE ROCK★の声が聞こえる。二度目の電話。また母ちゃんが出る……。受話器をぶん取る。
「この番組で、君たち般若の曲をかける予定なんですけど、曲終わりでまた連絡するんで、電話出演してもらえませんか?」
──な、なんですと?
一気に目が覚めた。その日の番組ゲストでZEEBRAが出るコーナーがあるらしく、「鬼だまり」で渡したデモテープに入っていた曲をそこで流してくれるのだという。確かにデモテープには、俺の家の電話番号を書いた紙を入れておいた。でも、いきなりすぎて、正直かなりテンパった。展開が予想外すぎて、ついていけなかった。
俺達の曲がかかったのは四時を過ぎたくらいだったと思うけど、最初の電話がかかってきてからの時間をどう過ごしたかよく思い出せない。覚えているのは、俺達の曲がかかった時の嬉しさと……驚きだった。
──思いっきりdisってる……。
デモテープにはA面とB面に一曲ずつ入れていて、俺達としてはA面の曲のほうが自信作だった。だから、当然それが流れるもんだと思っていた。でも、流れたのはB面に入れた曲。
──「般若狂」じゃん、これ……。
それは、「鬼だまり」に出ていたような先輩ラッパー(面識もないから先輩も後輩もないんだけど)達をdisりまくっている曲だった。RUMIは「一歩上の人間ヅラしてマイク持つな」とか言ってるし、俺は俺で「テメーがラップ作ったんか?」とかラップしている……。
その直後にかかってきた電話。こうして俺は、YOSHIとして初めてラジオに出た。
想定外の曲が流れたけど、それでも自分達で作った曲だし、やっぱり嬉しかった。YOU THE ROCK★やZEEBRAと電話で話す時にはそれなりに緊張したけど(曲でdisってる側にいる人達だし)、「RUMI」や「YOSHI」ってMCネームを伝えることもできた。ラップを始めて一ヶ月にしてはいい感じかもなんてその時は思っていた。
でも、その番組を機に俺とRUMIを取り巻く環境は目まぐるしく動いていく。
「HIP HOP NIGHT FLIGHT」はヒップホップ好き達の間では知られた番組だったらしく、
──「般若」って何なの?
──「YOSHI」って誰なの?
と、結構な話題になってしまった。
とは言っても、俺がその状況を知るのは放送からしばらく経ってからだった。俺はヒップホップ好きとの交流がほとんどなかったから、「HIP HOP NIGHT FLIGHT」の影響力なんて知るはずもなかった。RUMIも似たようなものだったと思う。地元の友達もバイクと喧嘩に夢中だから、溜まり場に行ってもそんな話にはもちろんならない。
ギラついた無名のラッパー達の間で、名前だけが先走って知られてしまった「般若」「RUMI」、そして「YOSHI」。
クラブとかに行くと、「あいつがそうらしいよ」みたいな険悪な視線を思いっきり浴びせられる羽目になった。そこで初めて「何か注目されちゃってるっぽい」ってことを知ったんだけど、こっちも若かったし「なんだこの野郎」みたいな感じで応じてしまう。結果として、フリースタイルのバトルが勃発してしまったり、もっとひどい時には殴り合いが起きてしまったり、面倒な状況が続くようになった。
十七歳だった。将来のことなんて、ほとんど考えていなかった。ただ、ラップをすることで自分の中にある怒りや哀しみを昇華させることが生き甲斐になり始めていた。十二歳の年末に長渕さんを見ながら抱いた「夢みたいなもの」に向かって、俺は小さな一歩を踏み出した。
それが茨の道の入り口だなんてことには、その時は全く気づいていなかった。
(『何者でもない』「#2 未知」より。続きは本書でお楽しみください)