年が明けた一月の上旬。少しだけまだお正月気分が残っている渋谷はいつもより閑散としている。時折冷たい風が吹き、道を歩く人たちは暖かそうなお店に吸い込まれていく。
こんな夜は何かロマンティックな音楽でお店を暖めようと考え、映画『ティファニーで朝食を』のサントラのレコードを棚から取り出した。
このアルバムの中に『ムーン・リヴァー』という曲がある。ヘンリー・マンシーニが作った世界で一番美しい曲だ。レコードに針を置くとバーの扉が開き男性が入ってきた。
三十歳くらいだろうか、緑色のニットの帽子をかぶり、アディダスの大きいロゴがついたグレーのパーカーの上に黒いシンプルなジャケットを着ている。
私の方を見るとニコリと笑顔を見せ、「一人です。どの席でも良いですか?」とよく通る声で言った。
私も軽く微笑み、「どうぞ、どちらでもお好きな席へ」と促した。
彼はカウンターの真ん中の席に座り、ジャケットを脱いで椅子にかけ、私の方に向き直り、こう言った。
「マスター、ビールが欲しいんですけど、このお店は季節でビールの銘柄が替わるんですよね。一月のビールは何ですか?」
「一月はギネスをお出ししています」
「ギネスですか。黒ビールですよね。マスター、どうしてギネスって黒いんですか?」
「まずビールの作り方から説明しますね。麦を水にひたして置いておくと芽が出ますよね。その芽が出すぎないうちに熱をくわえて乾燥させたのが麦芽というものなのですが、ほとんどのビールはこの麦芽が原料になります。
アイルランドではこの麦芽に税金がかけられていました。一七七八年、アーサー・ギネスが『麦芽にしなければ税金はかからない』と思いつき、大麦を焙煎して原材料に加えたんです。ギネスの黒い色はこの焦がした麦の色からくるのですが、この焦げた苦みが独特の味わいで人気が出たのです。
税金も節約できるし、味わいも色も面白いしというすごいアイディアがこのギネスだったわけです」
彼の前にギネスを置くと、彼はそのギネスを見つめてこう言った。
「なるほど。このギネスのように考え方を変えてみるのもいいのかな」
「どうされましたか?」
「僕、失恋してしまいまして。ちょっと聞いていただけますか」
「もちろんです」
「好きな女性がいるんですが、彼女、カッコいい恋人がいて、完全に僕の片思いなんです」
「出会った時、彼女にはもうその恋人はいたんですか?」
「はい。普通にSNSなんかにその彼とのデートのことなんかが出てきますし、周りでも結構有名な仲の良いカップルなんです」
「でも好きになっちゃったんですね」
「はい。彼女の笑い方とか服のセンス、喋り方とか何もかもが好きなんです。彼女の可愛いところをあげるコンテストがあったら誰にも負けないです。もちろん、彼氏にも負けない自信があります」
「彼女はその気持ち、知ってるんですか?」
「知ってます。一度、飲み会の帰り、駅まで二人だけだったんで『夏子さん、好きです』って言ってみたんです。
彼女、明るい笑顔でこんな返事をくれました。
『知ってますよ。ありがとうございます』
『あの、決して彼から奪い取ろうとかストーカーみたいになったりしないから、もう少しこのまま好きでいてもいいですか?』
『なんか加藤さんらしいですね。私こういうモテ方したの初めてだから、正直すごく嬉しいです。失恋ばかりしてた二十歳の頃の私に、この状況を教えたいくらいです』
『昔はモテなかったんですか?』
『昔も今も全然モテないですよ。こんな風に男性から好きって言われたの初めてです。彼にだって私から好きって言って始まったし』
『え、こんなに可愛いのにですか? 不思議です。僕、夏子さんの可愛いところ、何十カ所でもあげられますよ』
『うわー、嬉しいなあ。私、本当はそういう恋愛をすれば良かったんですよね。いつもいつも私の方から好きになって撃沈したり大騒ぎして付き合ってもらったりばかりなんです』
『あの、そういう感じもわかります。そういう夏子さんの一生懸命な感じも好きなんです』
『彼にその言葉、聞かせたいなあ。実は今、彼に結婚しようって言ってるんですけど全然はっきりしないんです。また私、空回りばかりしてるなあって。お似合いのカップルみたいに見せてるけど、本当は完全に私が一方的なんですよね』
『あの、もし良ければ、いつでも彼に、こんな素敵な女性、幸せにしなきゃダメじゃないかって言いに行きますよ』
『あはは。加藤さん、ホントに言ってくれそうですね。嬉しいなあ。誰か早く別の女の子見つけて幸せになってくださいね!』
『はい。出来ればそうしたいんですけど、夏子さんホントに可愛いからまだしばらく好きでもごめんなさい。あの、早く結婚出来ると良いですね。応援します!』
その後、改札のところで別れました。それからは一切、その話はしていません」
「夏子さんへの恋はあきらめられそうなんですか?」
「全然ダメですね。もうこのままずっと何年も好きなままでもいいかなって思ってるところです」
「もしかして、夏子さんがいつかは加藤さんの方に振り向いてくれると期待していませんか?」
「それはない自信があります。たぶん彼女も僕と同じで恋に不器用なんだと思います」
「そういえば、『ティファニーで朝食を』っていう映画はご存じですか? そのサントラの作曲家のヘンリー・マンシーニに有名な恋の話があるんです」
「映画は知ってますけど……」
「マンシーニは、『007』や『刑事コロンボ』、『ひまわり』といったたくさんの音楽を手がけているんですけど、彼、実はオードリー・ヘップバーンにずっと片思いだったそうなんです。
マンシーニは公的には病死ということになってるのですが、本当は前年に死んだオードリー・ヘップバーンの後を追って自殺したというのは誰もが知っていることらしいんです。
マンシーニがオードリーのために『ムーン・リヴァー』を書いたのが一九六一年。オードリーが死んだのが一九九三年でマンシーニが死んだのが一九九四年です。
ということはマンシーニは、三十二年間もオードリーに片思いだったということになります。オードリーはその間に二回結婚をし、最後も結婚ではなかったものの男性と同棲状態のまま亡くなっています。オードリーが何度もの恋愛劇を繰り返している間、マンシーニはオードリーの姿を眺めながらずっと片思いだったというわけなんです」
「相当好きだったんですね」
「私が気になるのは、マンシーニはオードリーに自分の恋心を伝えたんだろうかってことなんです。たぶん伝えたでしょうね。それを聞いてオードリーはどんなリアクションをしたのでしょうか。『あらヘンリー、どうもありがとう』くらいの言葉だったと私は想像します。というのは、当時、オードリーは世界最高の女優で、そんな言葉は毎日のように聞いていたはずですからね。
マンシーニはオードリーをデートに誘ったりしたでしょうか。たぶんそのくらいはしたと思いたいです。『今度の君の映画の歌のシーンに参考になると思うから、このミュージカルに行ってみない?』というような理由を付けてオードリーをデートに誘ったはずですよね」
「そうあってほしいですね」
「ええ。でもマンシーニの残された映像を見る限り、どう見ても恋愛上手だったようには思えないんです。
おそらく周りのスタッフたちにも『あらあら、マンシーニさん、オードリーにベタ惚れなんだよな。無理だって。女優に惚れてどうすんだよ』なんて陰で言われていたに違いないんです」
「ああ、なんか想像するだけでつらいな」
「オードリー・ヘップバーンって晩年はかなり年老いた雰囲気になってしまいますよね。それでも、そんなオードリーのこともマンシーニは深く恋していたんでしょうね。
マンシーニはこの世界に多くの美しい楽曲群を残しました。これらの多くの曲が今でも美しいのはやはりマンシーニがオードリーだけを喜ばすために書いていたからだと思うんです。
今、私がかけている『ティファニーで朝食を』のサントラのライナーからは二人のこんな会話がすけて読めるようです。
『ねえ、オードリー、今度の君の映画のためにすごく綺麗でロマンティックな曲が書けたんだ。ちょっと君に聞いてほしいから今度の火曜日の夜にでも会えないかな?』
『ごめんね、ヘンリー。火曜日はちょっと忙しいの』
『そう。じゃあ水曜日はどうかなあ? ほんとまるで君みたいに綺麗な曲なんだ』
『水曜日もちょっと……ごめんね、ヘンリー』
『いや、いつだっていいんだ。君があいている日で。別に夜じゃなくてもいいし。昼、一時間くらいあいている時間があれば君にこの曲を聞かせられると思うんだ』
『ヘンリー、あなた新聞は読まないの? 私、今度結婚するの』
『もちろん知ってるよ。おめでとう、オードリー。君のそんな幸せを祝いたくてこの曲を作ったんだ』
『ごめんね、ヘンリー』
『何を言ってるんだ、オードリー。君が幸せそうなのが僕には一番なんだ。ちょっと歌ってみるよ』」
私は『ティファニーで朝食を』のサントラをもう一度裏返し、最初からかけ直した。
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