「北海道のあるあるを200個くらい送って。」
「無理です。」
「じゃあ、三日後で。」
「無理です。」
数年前、北海道のあるあるをテーマにした本を作ることになった先輩のライターに、制作のお手伝いという名目で、北海道のあるあるを200個送ることになった。
結局、200個は無理だったが、150個くらいは送った。
その中から、100個くらいは「使えそう」ということで、本に掲載されて、力になることはできた。
その時、方言よりも、名物の食事よりも、最も反響があったものがある。
それは『つららは食べるもの』という文化だった。
北海道では、子供がつららを食べる文化がある。文化というより、癖のようなものだ。
雪に埋もれた公園や、団地の屋根の裏あたりや、学校帰りに。
ご多分にもれず、僕もまた、つららを食べていた子供だった。
幼稚園の時。僕たちは休日の公園で、つららを食べていた。
小学校の帰り道。僕たちは知らない家の裏に回って、そこでもつららを食べていた。
つららは時に、剣になった。剣は時に、ビームを出しているという設定となった。剣は時に、ミサイルを打てるという設定にもなった。
その剣が、根雪とともに溶ける季節になった頃、僕たちの中の「たち」の関係性に、少しずつ、変化が起こり始めた。
僕たちに自我が芽生えていた。自我は序列や顕示欲を生んでいた。
「たち」だったはずの中の一人が、雪山に投げ飛ばされる姿を見た。今度は「たち」だったはずの一人が、雪に埋められている様子も見た。蹴られている姿も見た。「たち」だったはずの人が、雪にまみれて泣いていた。
傍観者だった僕は、ただ黙って、雪にまみれて泣いている友人がイジメられている様子を見ていた。
雪よりなんかより、もっと冷たい視線たちが、そこにはいくつも並んでいた。
早く、家に帰りたくなった。
北海道内だけで発売になる、札幌近郊のカフェを紹介する雑誌やムックには、「表紙にはこれを乗せておけば間違いない」と言われている、“ハズレのない”人気のカフェメニューがいくつかある。
中でも、その見栄えと味から圧倒的に支持を受けているレアチーズケーキがある。
カフェラバスティーユ。
この喫茶店で提供されている、レアチーズケーキだ。
「困った時の〇〇さん」ならぬ、「困った時のこのレアチーズケーキ」。
それは、『味』だけではなく、『見栄え』だけでもなく、その地域に存在し続けることで勝ち取った、『信頼』から生まれた“ハズレのなさ”を内包している。
写真に映えることがクローズアップされる、今。
プロが「映える」と思うものには、ルックスと、そこにプラスして、「信頼」というスパイスもふりかけられている。
先日も、あるカフェ雑誌でこのチーズケーキを見かけ、久々に食べたくなり、店へ向かった。
ここから先は会員限定のコンテンツです
- 無料!
- 今すぐ会員登録して続きを読む
- 会員の方はログインして続きをお楽しみください ログイン