なにかを一途に愛するのは、そう簡単なことじゃない――カラスを研究しつづけて25年。東京大学総合博物館の松原先生が、その知られざる研究風景をつづった『カラス屋、カラスを食べる 動物学者の愛と大ぼうけん 』から一部をご紹介します。愛らしい動物たちとの、ちょっぴりクレイジーなお付き合いをご賞味ください。さて、ウィーンでのロストバゲージ事件も乗り越え、ブダペストにようやく到着した松原先生。発表合間の休憩日に鳥を見に行こうとしますが…。
ドナウ川沿いのキイチゴは魔法の実!?
そういうわけで、翌日、私とモッチーは、朝からブダペスト西駅に行き、言われた通りの売り場で「ラムシャカディーク」と言いながらバイトの兄ちゃんがノートに書いてくれた地名をオバちゃんに見せると、オバちゃんは「ああ、あそこ」みたいな顔でうなずいてチケットを寄越した。
そこには「なんとか船着き場」という意味の全然別の地名が書いてあったが、バス停で言えばそこなのだろう。
さて、やって来た2両連結のバスに乗り込み、出発。本当は前の方に陣取って運転手に「ここで降りるから教えてくれ」と言いたかったのだが、運転席付近が混んでいたので諦めた。まあ、なんとかなるだろう。
ブダペストの市街地を抜け、席が空いた。座らせてもらったが、朝市で買い物して来たらしいお婆さんが「どっこいしょ」と乗って来るので、さすがにノンビリと座っている気にはなれず、席を譲る。次第に奥へ押し込まれながら郊外の村を通り、おとぎの国のようにかわいらしい町を通過した。
さあ、ここはどこだ。バス停には「次のバス停は◯◯」なんて親切な案内は書いていないし、錆や日焼けでバス停の名前すら読み取れないことがある。おまけに英語はめったに通じない。よし、こういう時は『旅の指差し会話ハンガリー編』の出番だ。「◯◯まではあと何駅ですか」という例文を見つけ、近くにいたお母さんに尋ねてみた。◯◯の部分にチケットに書かれた地名を入れて、「駅」を「バス停」に変えればいいだろう。駅は「アウドヴァール」だが、バス停は「ブスアウドヴァール」だったはず。
一応、意味は通じたようだが、お母さんはしばらく首をひねると、隣に座った娘さんと相談し始めた。娘さんが首を振ると、今度は前に座っていたおじさんの肩をつつき、何やら尋ねた。その隣のおじさん、その前のおじいさんも振り向いて会話に加わった。かくして、みんなの知恵を集めて頂いた結果、「あと10駅である」と判明したらしく、お母さんは両手を広げて指を10本見せた。
バスはドナウ川沿いらしい緑の中を走って行く。すっかり田舎だ。道を教えてくれた人たちも途中で次々に降りてしまった。よし、次が10個目。ぴんぽーん。
なんの変哲もない、森の中の道ばたとしか言いようのないところにバス停があった。降りたのは我々2人だけだった。バスは再び、ディーゼルエンジンを唸らせると走り去って行った。約2時間も乗ったバスを見送り、バス停の名前を確認する。錆びた表示板に書かれた名前は、チケットに書いてあったものとは全然違っていた。
10個目じゃねーじゃん。ていうか、ここどこだよ。
とりあえず、見通しを求めて、木立の向こうの牧草地みたいなところに出てみた。草が茂って、まばらに木が生えて、とても気持ちのいい場所だ。うわーピクニックしてー。リンゴとチーズとワインを持ってここに来たい。そのすぐ向こうが、記録的な雨が続いて大増水中のドナウ川だった。真っ茶色に濁って、渦巻きながら流れている。川辺の樹木まで水に漬かって、洪水寸前だ。だが川が広いから視界は開けた。下流を見る……何もなし。上流を見る……何やら屋根が並ぶ場所が見える。よし、あっちだ。1キロか2キロくらいか。
かくして、私とモッチーは雨上がりのドナウ川沿いの道をテクテクと歩いて行ったのである。あー、なんか疲れた。腹も減った。せっかくのオフなのに。そう思ってへこみそうになった時、道端に黒く熟したキイチゴを見つけた。お、食べ頃! 完熟! しかもすごく大きくてみずみずしい! モッチーはその気力もなかったのか食べなかったが、私は試してみた。
絶品だった。3つ食べたら急に元気が出て、そのまま町まで歩き切ることができた。魔法の実か何かだったのだろう。
ちなみに、たどり着いた町はヴィシェグラードと言った。ホステルの兄ちゃんが「ラムシャカディークはヴィシェグラードの少し先だったかな、手前だったかな、多分、少し先だな」と言っていたので、当たらずとも遠からずではあったのだろう。まあいい。
ここからはモッチーとは別行動で、夕方、隣町の電車の駅で合流しよう、という実にアバウトな予定にした(ホステルの鍵を1つしか渡されなかったので、別々に帰ると面倒なのである)。私は鳥を探してしばらくうろつくことにした。モッチーは町に何軒もあるカフェを回ってビールを試していたらしい。
ワタリガラスとマジャール語
鳥を探したり、ドナウ川でちょっと釣竿を出してみたりした後、町を見下ろす小山の上にある城を見物した。城の真上をノスリが舞っていると思ったら、鷹狩りショーをやっていた。城の中は博物館みたいになっていたが、妙に生々しいマネキンなんぞが並び、ちょっと怖い。ついでに解説がマジャール語とドイツ語とイタリア語なので、さっぱり読めない。
最後に山を下りてバス停に行くと、バス停の真ん前にビストロか小さなホテルみたいなものを見つけた。看板には羽をむしられて万歳をしている黒い鶏ガラみたいなものが描いてある。カフェか? エーッテレムと書いてある。レストランという意味だ。店の名前は「フェケテホーロー」。「フェケテ」は確か黒だから、黒いナントカ……いや、これは例の「ワタリガラス」ではないか! すると看板に描いてあるヘボすぎる絵はワタリガラスのつもりなのか!
これを見逃す手はない。幸い、バスが来るまであと30分ほどある。建物の入り口にバイトの学生風の兄ちゃんがいたので、「入っていいか」と聞いたら「ええ、もちろん」みたいな感じで通してくれた。ガーデンスペースは椅子が積み上げてあったりして開店休業な感じだったが、客がいるなら別に……ということだろうか。
入ってみたら、いきなり壁にワタリガラスの剥製が飾られていた。うわあ。見たい。すっげー見たい。
とりあえず注文しないと悪いので、適当にビールを頼んだ。食事メニューを渡されたのだが、時間ないし、と思ったら、えらいものを見つけた。リーバーマイと書いてある。フォアグラのことだ。ハンガリーの特産品の一つがフォアグラである。何なに、日本円にして1200円くらい?
ワタリガラスの剥製を見たせいで気分が肉食になっていたのか、これも頼んでしまった。深く考えずに兄ちゃんにリーバーマイと言ったら、ものすごく嬉しそうに「え? マジャール語、わかるんですか?」と聞かれた……らしい。マジャール語で何やら話しかけられ、「マジャルル(マジャール語を)」という単語だけは聞こえたからだ。「?」と首を傾げて「ワタシ、ワカリマセーン」というボディランゲッジを送ると、英語で「マジャール語わかるんですか」と聞き直された。もちろん、全然わからない。いくつかの単語やフレーズと数詞(買い物に必要だ)を覚えて行っただけである。
重要だったのは「すいません」に相当する「エルネーゼーシュト」という言葉だった。ハンガリーは英語があまり通じないので、「エクスキューズ・ミー」と言っても相手の耳に入らない。「エルネーゼーシュト!」と声をかけると立ち止まってくれるので、その後は指差しでも筆談でも身振り手振りでも、なんとか話をつければよい。もう一つきちんと覚えたのは、「ホル・ヴァーン・ヴェーツェー?(トイレどこですか?)」という言葉である。緊急時にあれこれ試す余裕はないはずだからだ。ちなみに軽く「いいよ」と言う時は「ヨー」で、電話などでは「うんうん」という感じで「ヨー、ヨーヨー」と何度も繰り返しているのを耳にした。
まるでラッパーである。
それはともかく、兄ちゃんが厨房に行っている間にしげしげと剥製を観察し、バシバシ写真を撮っておいた。
ワタリガラス。全長65センチ、体重1・2キロ。世界最大級のカラスにして、アメリカからユーラシアに広く分布し、世界各国の神話に登場する、神秘の鳥。極めて高い知能を持ち、複雑な社会を維持していると言われている。今参加している学会では飼育下での研究がいくつも発表されていたが、数が少なく警戒心が強いので、野生状態では容易に研究できない。実験について発表していた人に「非常に興味深いが、野外ではどうなのか」と質問したら、「一瞬で飛び去ってしまうから、野外で研究なんて絶対無理」と言われた。私が一番会いたかったカラスだ。たとえ標本でも。さすがワタリガラス、巨大だ。嘴も大きい。喉から胸にかけて生える羽も見事だ。惜しむらくは、虹彩の色が少し薄すぎるのではあるまいか。
ビールと料理を持って来た兄ちゃんは、私がマジャール語を話せないとわかっても、やっぱり嬉しそうに英語で話しかけ、どこから来たんだ、ここへは行ったか、どうやって帰るんだ、バスか、それなら大丈夫だバス停が目の前だから、などとニコニコしながら話をして行った。マジャール語は世界で最も難しい言語の一つだというから、たとえ一言でも外国人が自国語を覚えようとしているのが、なんとなく嬉しいのかもしれない。ちなみに世界三大難しい言語の一つは日本語だという(この手の三大◯◯は異論が極めて多いのだが)。「コンニチワ」しか知らなくても「オレは日本語が話せる」と豪語するイタリア人に会ったことがあるから、マジャール語の単語を2つ3つ知っている以上、「俺は最も難しい言語3つのうち、2つを話せる」と言ってみたりして。
ビールを飲み、フォアグラのフライ・リンゴソテー添えなどをつついていたらあっという間に30分が経ってしまった。金を払おうとしていると後ろでバスの音が聞こえ、釣り銭を受け取るのもそこそこに、あたふたと走ってバスに飛び乗ったのだった。
うむ、予定とは少し違ったが、楽しい旅だった。
*
「青くはなかったが美しきドナウ」編・了。松原先生、やっぱり海外に行っても、いちばん興奮するのはカラスと会った時なのでした。さて、次回からはフィールドを海に移して「調査職人」編をお届けします!お楽しみに。
カラス屋、カラスを食べる
カラスを愛しカラスに愛された松原始先生が、フィールドワークという名の「大ぼうけん」を綴ります。「カラスの肉は生ゴミ味!?」「カラスは女子供をバカにする!?」クレイジーな日常を覗けば、カラスの、そして動物たちの愛らしい生き様が見えてきます。
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