歴史的ヒーローがひしめく戦国時代。
圧倒的天才・織田信長を苦しめ、
新書『信長になれなかった男たち』(安部龍太郎著)より、「桶狭間の戦いは奇襲ではなかった」を公開いたします。
桶狭間の戦いは奇襲ではなかった
桶狭間の戦いは、戦国史上もっとも名高い戦いのひとつである。
二万五千といわれる今川義元の大軍を、信長はわずか二千余の軍勢で打ち破り、天下統一の大事業に向かって駆け登るきっかけをつかんだのだから、ドラマとしてもまことに面白い。これまで何度も映画や小説で取り上げられてきたのは無理からぬことである。
ところがこの戦いには、長い間ひとつの誤解がつきまとっていた。信長は今川方の大軍を破るために山道を迂回し、義元の本陣を奇襲したという説である。
これは小瀬甫庵の『甫庵信長記』に始まり、明治三十五(一九〇二)年に参謀本部が編さんした『日本戦史』でも追認されたために、長い間史実であるように信じられてきた。
しかし信長の家臣だった太田牛一が記した『信長公記』をつぶさに読めば、信長は奇襲ではなく真っ正面から今川軍と戦い、敵をまくり上げるような大勝利のはてに義元を討ち取ったことは明らかである。
平成二十二(二〇一〇)年は桶狭間の戦いからちょうど四百五十年目にあたり、桶狭間、大高、有松の各会場でさまざまな催しがおこなわれ、大勢の来場者でにぎわった。
私も有松会場で記念講演をさせていただき、戦場となったあたりを見て回った。そうして新たに気付いたことも多いので、その知見を加味してこの戦いの実像に迫ってみたい。
今川義元の本当の狙い
問題のひとつは、なぜ戦いが起こったかということである。
小瀬甫庵は、義元が上洛して天下に号令するつもりだったと記し、これが後々まで信じられてきたが、義元の本当の狙いは信長との国境の争いを解決し、三河支配を安定させることにあった。
もともと尾張東部の三郡は、尾張守護の斯波家から今川家に割譲されたものだった。そこで義元は弟の氏豊を那古野城に入れて支配にあたらせていたが、天文四(一五三五)年に信長の父信秀が氏豊を城から追放して三郡を奪いとった。
以来旧領の回復は今川家の悲願となったが、東に北条、北に武田という強敵をかかえる義元は、軍勢を西へ動かすことができなかった。ところが天文二十三(一五五四)年に三国同盟をむすんで北条、武田の脅威から解放されたので、西への侵攻にとりかかったのである。
桶狭間の戦いの前年、義元は重臣の鵜殿長照に大高城の在城を命じ、この方面の戦力強化をはかった。
決戦の年の四月には、知多半島に勢力を張る水野信元に「夏中に進発せしむべく候条、その以前尾州境取出の儀申付く」という書状を送って今川方につくように求めた。
また市江島の一向一揆の大将である服部左京助と同盟し、義元の出陣にあわせて船一千余、兵六千をもって天白川まで出陣させる手筈をととのえた。
これに対して信長は、敵方の鳴海城のまわりに丹下砦、善照寺砦、中嶋砦を、大高城には鷲津砦、丸根砦を配し、今川方の侵攻にそなえた。
鳴海、大高を拠点とされれば、天白川より東は今川方に完全に押さえられるので、付城で包囲することによって両者の連絡を断とうとしたのである。
雨を避けた信長の鉄砲隊
もうひとつの問題は、信長はどうして二万五千もの今川勢に勝つことができたかということだ。その経緯を『信長公記』をもとに述べると次のようになる。
五月十八日、義元は沓掛城に着き、徳川家康らに大高城への兵糧入れと鷲津、丸根砦への夜襲を命じた。家康らは忠実にこれをはたし、翌十九日の未明には二つの砦を陥落させて大高城の窮地を救った。
この報告を受けた義元は、十九日の朝に沓掛城を出て正午ごろに桶狭間山に布陣した。ここで服部水軍の到着を待ち、一気に鳴海城まで兵を進めるつもりだったと思われる。
一方、信長は十八日の夜に清洲城で重臣たちを集めて軍議を開いたものの、自分の考えをまったく明かさなかった。
このころ信長は尾張一国の統一を終えているので、一万五千ほどの軍勢を動かすことは可能だった。ところが重臣の中には今川家と通じている者がいたので、内情が筒抜けになることをさけるために戦の話はいっさいしなかった。
そして翌日の明け方、わずかな近習ばかりを従えて出陣した。その後を追って信長の直属の親衛隊がぞくぞくと集まり、善照寺砦に着いた時には二千ばかりの軍勢になった。
信長は始めから、この手勢だけで戦うと決めていたのである。
中嶋砦にいた佐々隼人正、千秋四郎ら三百人は、信長が善照寺砦に着いたのを確かめると、今川本隊に向かって突撃した。敵の大軍を狭い谷間におびき出すための捨て身の作戦である。
今川勢はまんまとこの策にはまり、山から駆け下りて谷の道へ殺到した。これを見た信長は中嶋砦に全軍を移し、今川勢と真っ正面から戦うことにした。
これでは無勢の我らに勝ち目はないと、重臣たちは馬のくつわに取り付いて止めようとしたが、信長はこれをふり切って最前線に出たのである。
この時、急に暴風雨になった。
一時間ほどつづいたこの嵐が、両軍の勝敗を決定する要因となった。今川方の鉄砲は雨にぬれて使えなくなったが、中嶋砦に避難した信長の鉄砲隊は雨をさけることができたからだ。
この利を充分に知りつくしている信長は、雨が上がるなり一斉射撃をあびせ、三間半(約六メートル)の長槍隊を突撃させた。
「信長鑓をおっ取って大音声を上げて、すはかゝれ〳〵と仰せられ、黒煙立てゝ懸るを見て、(敵は)水をまくるがごとく後ろへくはっと崩れたり」
(『信長公記』)
これが桶狭間の戦いの真実なのである。
信長になれなかった男たち
戦国時代には英雄、豪傑がキラ星のごとく現れ様々な物語の主人公になっているが、歴史に名を残したのはほんの一握りのスーパースターにすぎない。
信長・秀吉・家康の活躍の影には、敗れ去った多くの武将たちがいた。
戦国初の天下人を目指した三好長慶。琵琶湖を押さえ栄華を極めた浅井長政。ローマ法王に使節団を送った蒲生氏郷等々…。彼らと信長を分けたものとは一体なんだったのか。
戦国武将25人の栄光と挫折の生涯を追った話題の新書『信長になれなかった男たち』(安部龍太郎著)より、読みどころを無料公開いたします。