歴史的ヒーローがひしめく戦国時代。
圧倒的天才・織田信長を苦しめ、
新書『信長になれなかった男たち』(安部龍太郎著)より、「富士山麓に信長の首塚があった!」を公開いたします。
富士山麓にある信長の首塚
毎年十一月に、富士宮市西山にある西山本門寺で「信長公黄葉まつり」が開かれている。
この寺の境内には信長の首塚があり、首塚の上には樹齢四百年をこえる柊の大木が植えられている。
十九年前にこのことを『歴史街道』(PHP研究所)に連載中のエッセイで紹介したところ、地元の旧芝川町の商工会の方から連絡があった。
「首塚の縁にちなんで信長公を供養する祭りをおこない、町の活性化につなげたい」
というものである。
地元の方々の強い熱意でこの計画はとんとん拍子に進み、平成十二(二〇〇〇)年に第一回の祭りが開催された。私が首塚の由来について講演をし、講談師の神田すみれさんが首塚にちなんだ新作を披露された。
第一回は二百人ばかりのこぢんまりしたものだったが、信長公のご加護のせいか祭りは年々盛大になり、多い時には二万人をこえる人々に参加していただけるようになった。
内容も武者行列や剣道の野試合、出陣太鼓や火縄銃演武、それにグルメ屋台の出店など盛りだくさんである。境内の大銀杏の黄葉と冠雪した富士山のコントラストが見事で、祭りを華やかに盛り上げてくれる。
そこに信長の首塚というミステリアスな歴史ロマンも加わって、祭りに参加するのを年中行事にしているリピーターも増えつづけている。
「しかし、本当に首塚なの?」
そんな疑問を持たれる方も多いと思うので、由来についてあらましを紹介したい。
本能寺の変の真相
信長の首を西山本門寺に運ぶように命じたのは、囲碁の名手であった本因坊算砂だった。
本能寺の変の前夜、信長の御前で鹿塩利賢と対局した算砂は、そのまま寺に泊まり、翌朝の明智勢の襲撃に巻き込まれた。
すでに信長が自決したと知った算砂は、信長の首を西山本門寺に運び、敵の手に渡らないように秘匿せよと、従者の原志摩守宗安に命じた。
算砂は法名を日海といい、西山本門寺との縁が深かった。そこで境内に信長の首塚をきずいた後は、この寺に本因坊という名の塔頭を建てて終のすみかにした。
しかも志摩守宗安の子日順を弟子にし、寺の第十八代貫主にするという熱の入れようである。
この日順が残した過去帳には、天正十(一五八二)年六月二日の項に「惣見院信長、明智の為に誅さる」と記されている。
討たれるではなく誅さるとあるところに重大な意味がある。なぜなら誅さるとは、上位の者が罪ある者を殺す場合に用いる言葉だからだ。
この当時、信長より上位にあった者は、天皇か東宮(皇太子)しかいない。つまり光秀はそのどちらかに命じられて信長を討ったということである。
それに該当する人物は誠仁親王しかいない。正親町天皇の東宮だった誠仁は、信長に「将軍か関白か太政大臣、いずれの官にも任ずる」という書状を送って上洛させた張本人であり、光秀に誅殺を命じたのも彼だったと思われる。
日順は変の当事者であった算砂からこうしたいきさつを聞いていたために、確信を持って誅さると記したのである。
この日順上人に帰依していたのが、後水尾天皇と東福門院(秀忠の娘和子)との間に生まれた常子内親王だった。
常子は関白近衛基煕の妻になるが、その頃の朝廷は後西天皇の反幕府的な行動が原因となって災難つづきだった。
そうしたさなかの延宝六(一六七八)年十一月、常子は霊元天皇の勅宣を得て両親の位牌を西山本門寺に納めた。このため寺は天皇家の位牌所となり、後に十万石の格式と呼ばれるほどの厚遇を朝廷と幕府の双方から受けるようになる。
信長公の功績を広める
しかしなぜ、常子はこんなことをしたのか?
その謎を解く鍵は、信長の首塚と誅さるの文字にある。日順上人に帰依していた常子は、本能寺の変の真相をつぶさに聞かされていた。そして朝廷に災難がつづくのは、誠仁親王に討たれた信長の祟りだと教えられたのだろう。
後水尾天皇は誠仁の孫なのだから、これは常子にとっても他人事ではない。しかし信長の供養をしたいと望んでも、真相を公にすることは絶対にできなかった。
そこで両親の位牌を安置することによって寺格を上げ、あわせて信長も供養できるようにしたものと思われる。
平成二十三(二〇一一)年の晩秋、祭りを支援している「信長公奉賛会」のメンバー三十五人が、近江八幡市長を表敬訪問し、今後ますます親睦を深め、信長公の功績と志が広く世の中に知られるように活動していこうと申し合わせた。
会には織田信雄の子孫であられる信和氏にも相談役として加わっていただき、やがては西山本門寺の首塚が歴史的にも正しいと証明されるようにしたいと語り合った。
その後一行は安土城を訪ね、信長の廟や織田信雄家四代の墓、惣見寺歴代住職の墓などに参拝し、ご冥福とご加護を祈った。
十九年前のささいな一文がこうした御縁を結び、「信長公黄葉まつり」という盛大な祭りにつながっている。
祭り好きだった泉下の信長も、公に供養したいと願っていた常子内親王も、さぞ喜んでくれるのではないだろうか。
信長になれなかった男たち
戦国時代には英雄、豪傑がキラ星のごとく現れ様々な物語の主人公になっているが、歴史に名を残したのはほんの一握りのスーパースターにすぎない。
信長・秀吉・家康の活躍の影には、敗れ去った多くの武将たちがいた。
戦国初の天下人を目指した三好長慶。琵琶湖を押さえ栄華を極めた浅井長政。ローマ法王に使節団を送った蒲生氏郷等々…。彼らと信長を分けたものとは一体なんだったのか。
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