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信長になれなかった男たち

2019.02.05 公開 ポスト

なぜ川中島の戦いは12年にも及んだか【戦国史の意外な真実】安部龍太郎

歴史的ヒーローがひしめく戦国時代。
圧倒的天才・織田信長を苦しめ、そして敗れ去った武将25人の生き様を追った
新書『信長になれなかった男たち』(安部龍太郎著)より、「なぜ川中島の戦いは12年にも及んだか【戦国史の意外な真実】」を公開いたします。

(写真:iStock.com/oorka)

川中島の戦いの真相

信玄といえば川中島の戦いで知られている。越後の上杉謙信と五回にわたって戦い、ついに勝敗が決しなかった。両雄の秘術のかぎりをつくした戦いぶりは、戦国絵巻の名場面として講談や小説の恰好の題材となっている。

中でも永禄四(一五六一)年の第四回目の戦いは激烈で、謙信自ら武田の本陣に駆け込み、信玄に斬りかかった。信玄はあわてず騒がず、手にした鉄の軍配でがっしりとこれを受けたという。

こうした英雄譚にはこと欠かない名勝負だが、両雄はどうして五回、十二年にもわたって戦いつづけたのか。その理由について明確に説明した史書は案外少ない。

信玄は早く上洛して天下に覇をとなえたいと願っていたが、戦好きの謙信に挑まれつづけたので戦わざるを得なかった。そんな説をよく耳にするが、これは明らかに間違っている。

信玄は家督をついで以来、執拗に北進策を取りつづけ、信濃を攻略しようとした。謙信は村上義清や小笠原長時らの救援要請を受け、信玄の北進をはばもうとしたのである。

なぜそこまで遮二無二北へ向かおうとしたのだろうか?

武田信玄が挑んだ北進の夢

その理由が長い間分らなかった。

信玄にも川中島の戦いにもいまひとつ興味を持てなかったのはそのためだが、二十年ほど前に韮崎市教育委員会が編んだ『新府城と武田勝頼』(新人物往来社)という本に出会った。

この本の冒頭に故網野善彦氏の「日本中世社会における武田氏」という講演録がおさめられている。これを読み、なるほどそうかと目からウロコが落ちた。

その要約は次の通りである。

武田一族は鎌倉時代から対馬や安芸、遠江の守護をつとめ、室町時代には若狭守護の地位も手に入れた。

武田氏の末流である南部氏は、奥州下北半島の所領に移り、十五世紀後半には十三湊の安東氏との戦いに勝って、陸奥湾や津軽湾の海運を掌握した。

また若狭武田氏の一族である武田信広は、室町時代に北海道に渡り、松前を中心として支配権を確立した。

こうした一族や一門との交流は、信玄の代になってもつづいていたのである。

この頃すでに奥州からの産物は日本海航路を利用して若狭に運ばれ、京都や畿内に持ち込まれて大きな利益を生んでいた。

この航路の両端を武田一門が押さえていたわけで、信玄は信濃から越後に出て港を確保さえすれば、ドル箱とも言える海運のルートに直接つながることができたのである。

「信玄が北へ北へと行きましたのは、私は日本海に出て、日本列島を横断する道を押さえようとしたのではないかと思います」

網野氏はそう語っておられるが、日本海に出ることには、もうひとつきわめて重要な目的があった。海外貿易のルートとつながることである。

この頃の日本には硝石や鉛が充分に産出せず、大半を輸入に頼っていた。また鉄砲を作るための軟鋼や真鍮を作る技術もなかったので、すべて輸入に頼っていたことが近年の研究で明らかにされている。

つまり信玄が日本海に出ることには、鉄砲を生産したり実戦で用いるための物資を輸入するという軍事的な目的もあった。

かくて信玄は二十一歳で武田家の当主になってから、四十八歳で南進策に切りかえるまでの二十七年間、北進の夢に挑みつづけたのだった。

領国よりも流通ルートを手に入れたい

その足跡を駆け足で追ってみよう。

家督をついだ翌年、信玄は諏訪頼重に大勝し、頼重を自害させて信濃侵攻の第一歩を踏み出した。その翌年には佐久への侵攻を開始。この地方の盟主だった長窪城の大井貞隆を捕らえて甲府に連行した。

二十五歳の時に伊那地方に兵を進め、高遠城を攻め落とした。この二年後に山本勘助に命じて城の大改修に着手している。

二十八歳。信玄は千曲川水運を掌握すべく、葛尾城(長野県坂城町)の村上義清と合戦におよんだが、上田原で大敗した。

ちなみに村上義清は瀬戸内海の村上水軍と同族で、マルに上の字の家紋も同じである。当時の大名たちが、全国規模のネットワークを保っていたことが、このことからもうかがえる。

信玄は敗北の痛手を強硬策で乗り切ることにし、塩尻峠に布陣していた小笠原長時を奇襲して敗走させた。返す刀で佐久に攻め込み、敵方に通じた十三カ所の城を一気に攻め落とした。

〈佐久郡大将をことごとく打殺す。さるほどに打ち取るその数五千ばかり。男女生け取り数を知らず〉
(『妙法寺記』)

まさに侵掠すること火の如し。男女を生捕りにするのは身代金をとったり奴隷として売りさばくためである。

その二年後、信玄は砥石城(上田市)の戦いで再び村上義清に敗れたが、それから三年後の天文二十二(一五五三)年には葛尾城を攻め落として義清を敗走させた。

その後信玄は千曲川沿いの海津(長野市)まで進出し、山本勘助に築城を命じた。

この城を足がかりとして北進をつづけるつもりだったが、村上義清の救援要請を受けて出陣してきた上杉謙信と激突することになったのである。

戦国大名が戦いをくり返したのは、領国よりも流通ルートの支配権を得るためだった。信玄も例外ではなく、千曲川から信濃川にかけての水運の掌握と日本海海運への参入をめざしていた。

それゆえ謙信も、上杉家の命運をかけてこれを阻止せざるを得なかったのである。

安部 龍太郎『信長になれなかった男たち (戦国武将外伝)』

戦国時代には英雄、豪傑がキラ星のごとく現れ様々な物語の主人公になっているが、歴史に名を残したのはほんの一握りのスーパースターにすぎない。信長・秀吉・家康の活躍の影には、敗れ去った多くの武将たちがいた――。戦国初の天下人を目指した三好長慶。琵琶湖を押さえ栄華を極めた浅井長政。ローマ法王に使節団を送った蒲生氏郷等々……。規格外の変革者・信長と彼らを分けたものは何だったのか。丹念な現地取材を経て直木賞作家が辿り着いた、下克上の世を生き抜いた戦国武将たちの束の間の栄光と挫折の生涯。

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信長になれなかった男たち

戦国時代には英雄、豪傑がキラ星のごとく現れ様々な物語の主人公になっているが、歴史に名を残したのはほんの一握りのスーパースターにすぎない。
信長・秀吉・家康の活躍の影には、敗れ去った多くの武将たちがいた。

戦国初の天下人を目指した三好長慶。琵琶湖を押さえ栄華を極めた浅井長政。ローマ法王に使節団を送った蒲生氏郷等々…。彼らと信長を分けたものとは一体なんだったのか。

戦国武将25人の栄光と挫折の生涯を追った話題の新書『信長になれなかった男たち』(安部龍太郎著)より、読みどころを無料公開いたします。

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安部龍太郎

1955年、福岡県八女市(旧・黒木町)生まれ。久留米工業高等専門学校卒業。上京し、大田区役所に就職、後に図書館司書を務める。1990年、「血の日本史」でデビュー。 2005年、「天馬、翔ける」で第11回中山義秀文学賞、2013年、「等伯」で第148回直木賞受賞。2015年、福岡県文化賞受賞。『関ヶ原連判状』『信長燃ゆ』『蒼き信長』『おんなの城』『家康』『平城京』など著書多数。

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