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信長になれなかった男たち

2019.02.08 公開 ポスト

信長がひとめで気に入った蒲生氏郷という男【戦国史の意外な真実】安部龍太郎

歴史的ヒーローがひしめく戦国時代。
圧倒的天才・織田信長を苦しめ、そして敗れ去った武将25人の生き様を追った
新書『信長になれなかった男たち』(安部龍太郎著)より、「信長がひとめで気に入った蒲生氏郷という男」を公開いたします。

蒲生氏郷と大航海時代

蒲生氏郷は世界を夢見た男であった。

日本が西洋世界と最初に出会った時代のただ中に生まれた氏郷は、信長・秀吉に仕えながら会津百万石の大大名に立身するが、彼の眼は国内ばかりには向いていない。

西洋のすぐれた文明に触れ、スペインやポルトガル、イギリス、オランダが大航海時代の真っただ中にあることを知って、日本もそうしたグローバル化に向けて踏み出す必要があるといち早く考えていた。

高山右近に感化されてキリスト教に入信したのも、ロルテスというイタリア人技術者を家臣にし、使者としてローマへつかわしたのも、やがて来る世界進出の日に向けての布石だったのである。

信長にひと目で気に入られる

氏郷は蒲生賢秀の嫡男として近江国日野の中野城で生まれた。蒲生家は俵藤太秀郷の子孫で、蒲生郡を中心にして六万石ほどの所領を持つ大名だった。

伊勢から鈴鹿峠をこえて近江に入る東海道にもちかいので、古くから日野商人を輩出したことで知られている。また、堺や国友、根来とならび、早くから鉄砲の生産を始めたところで、その技術力の高さは日野鉄砲の名で全国に知られていた。

商人と鉄砲といえば、堺との交流が不可欠である。氏郷が幼い頃から世界への眼を開いたのは、父や家臣たちにつれられて堺をたずね、南蛮人や南蛮船に直にふれていたからだと思われる。

氏郷が十三歳の時、信長が足利義昭を奉じて上洛の軍勢をおこした。南近江の重鎮であった蒲生賢秀は、信長に従うべきかどうか迷った末に、氏郷を人質に出して服属することにした。

人質になれば、いつ殺されるか分らない不安な日々が待っている。氏郷は一命を捨てる覚悟で岐阜城におもむいたが、信長はひと目で氏郷の才質を見抜き、小姓として重用した。

しかも翌年には娘の冬姫を嫁がせ、中野城にもどることを許したのだから、氏郷への期待のほどがうかがえる。

その後、氏郷は織田軍団の一員として鮮やかな働きをしたが、天正十(一五八二)年六月、信長は本能寺の変で討ち果たされた。時に氏郷は二十七歳。変報を聞くとただちに安土城に駆けつけ、信長の妻子や側室たちを中野城にかくまった。

安土に侵攻してきた明智光秀は、再三にわたって使者を送り、妻女を引き渡して軍門に下るなら近江半国を与えると申し入れたが、氏郷は要求を拒み抜いて信義を貫いた。

光秀が山崎の戦いに敗れて滅亡した後、織田家の後継者をめぐって秀吉と柴田勝家が激しく争うことになった。この時、氏郷は秀吉支持をいち早く表明し、賤ヶ岳の戦いの前哨戦となった伊勢攻めにおいて秀吉勢の先陣をつとめた。

秀吉なら信長がめざしていた天下統一と外国進出の夢をはたしてくれると考えたからで、天正十一(一五八三)年六月には妹のとら(三条殿)を秀吉の側室とし、義兄弟のちぎりをむすんでいる。

その翌年、小牧・長久手の戦いを乗り切った秀吉は、氏郷を松ヶ島城に入れて南伊勢十二万石の所領を与えた。東国の徳川家康にそなえるためで、氏郷は畿内の守りの最前線を受け持つことになったのである。

天正十八(一五九〇)年、小田原城の北条氏を亡ぼし、奥州平定に乗り出した秀吉は、氏郷に会津四十二万石を与えた。その翌年には伊達政宗の旧領だった伊達、信夫、四本松などの地を合わせ、七十三万四千石とした。

これが後の検地で九十二万石の実高があることが分り、会津百万石と称されるようになる。本能寺の変から九年後で、氏郷は三十六歳になっていた。

この後、氏郷は会津若松城をきずいて領国経営に乗り出すが、四年後に志半ばにして京都の屋敷で他界。

死因は内臓の疾患だというが、伊達政宗に盛られた毒の後遺症だった可能性が高い。

イタリア人ロルテスを家臣に

氏郷の生涯できわ立っているのは、イタリア人ロルテスを家臣とし、三度にわたってローマに派遣していることだ。ロルテスは兵法、天文、地理に通じた技術者で、日本名を山科羅久呂左衛門勝成という。

天文や地理の知識は航海には欠かせないので、ロルテスは外洋航海ができる航海士だったのだろう。轆轤は大型船の帆や碇などを巻き上げる際に用いるもので、それを名前として使っていることも航海士であったことをうかがわせる。

氏郷は天正十二(一五八四)年五月、松ヶ島に転封になった直後にロルテスら十二人をローマに派遣し、ローマ法王に黄金百枚を献上した。これは法王に好みを通じると同時に、最新式の鉄砲を買い入れるためだった。

一行は二年後の十一月にローマから帰国し、法王の書状と鉄砲三十挺を持ち帰った。氏郷はロルテスに恩賞として五百石を加増し、同じ月に竹村藤次郎らを再びローマに派遣した。

この説は明治十七(一八八四)年に外務省が発行した『外交志稿』で取り上げられ、明治三十七(一九〇四)年十月発行の『太陽』において渡辺修二郎氏が「蒲生氏郷羅馬遣使説の出處」という論文で考察を加えたものである。

この論文によれば、加賀前田家の家臣となった蒲生家の子孫が『御祐筆日記』と題する家記を保持していて、この中にローマ派遣のことが明記されているという。

それを証明する史料が他にないため、今日の歴史学界では黙殺されているが、私は事実だろうと思っている。信長・秀吉の頃には西洋人が数多く来日していたし、その中にはさまざまな分野の先端技術者がいた。

家康がイギリス人のウィリアム・アダムス(三浦按針)やオランダ人のヤン・ヨーステンを顧問にしていたことはよく知られている。

信長や秀吉、そして他の有力大名がそうしたことをしていなかったと考えるほうが不自然なのである。

安部 龍太郎『信長になれなかった男たち (戦国武将外伝)』

戦国時代には英雄、豪傑がキラ星のごとく現れ様々な物語の主人公になっているが、歴史に名を残したのはほんの一握りのスーパースターにすぎない。信長・秀吉・家康の活躍の影には、敗れ去った多くの武将たちがいた――。戦国初の天下人を目指した三好長慶。琵琶湖を押さえ栄華を極めた浅井長政。ローマ法王に使節団を送った蒲生氏郷等々……。規格外の変革者・信長と彼らを分けたものは何だったのか。丹念な現地取材を経て直木賞作家が辿り着いた、下克上の世を生き抜いた戦国武将たちの束の間の栄光と挫折の生涯。

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信長になれなかった男たち

戦国時代には英雄、豪傑がキラ星のごとく現れ様々な物語の主人公になっているが、歴史に名を残したのはほんの一握りのスーパースターにすぎない。
信長・秀吉・家康の活躍の影には、敗れ去った多くの武将たちがいた。

戦国初の天下人を目指した三好長慶。琵琶湖を押さえ栄華を極めた浅井長政。ローマ法王に使節団を送った蒲生氏郷等々…。彼らと信長を分けたものとは一体なんだったのか。

戦国武将25人の栄光と挫折の生涯を追った話題の新書『信長になれなかった男たち』(安部龍太郎著)より、読みどころを無料公開いたします。

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安部龍太郎

1955年、福岡県八女市(旧・黒木町)生まれ。久留米工業高等専門学校卒業。上京し、大田区役所に就職、後に図書館司書を務める。1990年、「血の日本史」でデビュー。 2005年、「天馬、翔ける」で第11回中山義秀文学賞、2013年、「等伯」で第148回直木賞受賞。2015年、福岡県文化賞受賞。『関ヶ原連判状』『信長燃ゆ』『蒼き信長』『おんなの城』『家康』『平城京』など著書多数。

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