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忘れられない恋を誰かに語りたくなることがありませんか? その相手にバー店主は時々選ばれるようです。バー店主がカウンターで語られた恋を書き留めた小説『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』より、今週のお話。

*   *   *

三月、まだ冷たい風が吹く夜、満開の梅の香りが辺りに漂っている。

少しだけ春を感じるこんな夜には薄命の美人の歌声が聞きたくなった。

ビヴァリー・ケニーという美しい女性ジャズ・シンガーがいる。彼女はレコードを六枚だけ残し、二十八歳という輝く年齢で亡くなった。どうやら自殺というのが亡くなった理由らしい。

彼女が『イッツ・マジック』という曲を歌っている。

「二人、手を取り合って歩く時、世界は不思議の国になる。それは魔法。本当のことがわかったの。これは私の心の中のこと。魔法はあなたへの愛」

たしかに恋してしまうと、相手との運命の出会いや、心がわかりあえることなどすべてが魔法のように感じてしまうことがある。そして誰かが誰かに恋をする気持ちもまるで仕掛けのない魔法のようだ。

その曲が入ったビヴァリー・ケニーのアルバムをターンテーブルの上に置いているとバーの扉が開き、二十代後半くらいの女性が入ってきた。

顎のラインまでのボブ、少し謎めいた雰囲気があり、白いカシミヤのセーターがひろう身体の曲線が魅力的だ。

「どうぞお好きな席へ」と告げると、彼女は「じゃあここにしようかな」と耳に心地よい声で言いながらカウンターの真ん中に座った。

「お飲み物はどうされますか?」と問う私に彼女は少し考えて答えた。

「いつもこういうバーに来ると何か新しいお酒を飲んでみたいなと思うのですが、どう注文すれば良いですか?」

「そうですね。バーの棚には世界中で作られたお酒のボトルが並んでいます。

どのお酒も何十年何百年もの歴史があり、味はもちろん、ボトルやラベルのデザインも試行錯誤を繰り返し、いろんな物語を抱えて私のバーの棚に届いています。

お客様がそんなボトルを指さして、『そのお酒は何ですか?』とバーテンダーに質問するのが一番よろしいと思います。

世界中のデザイナーが、お客様に指さされるのを想定しながら、このボトルやラベルを生み出したわけですので、彼らも喜ぶのではないでしょうか」

「そう言われてみればそうですね。このたくさんのボトル、全部、誰かがいろんな会議を重ねて試飲を重ねて作ってるんですよね。じゃあ、私はあの背の高い黄色いボトルが気になります。あれは何のお酒ですか?」

「これはスーズというリキュールです。私たちバーテンダーの間ではフランスの黄色いカンパリと呼んでいます」

「カンパリは知っています。そちらにある赤いボトルですよね。ちょっと苦いお酒」

「はい。カンパリはリンドウの根を使ったリキュールですが、このスーズも同じくリンドウの根を使ったリキュールなんです。カンパリの方が営業努力の賜物で世界的に有名ですが、このスーズも実は歴史に彩られたリキュールなんです」

「スーズの歴史、気になります」

「スーズが生まれたのは一八八九年でした。スーズ社はパリの画壇の後援活動をして知名度を上げ、二十世紀初頭のベルエポック時代には『スーズはパリのエスプリの薫り』とまで言われるほど浸透し、あのピカソも愛飲しました。

しかし第二次世界大戦後、フランスではスコッチ・ウイスキーを飲む人が増え始めます」

「フランスと言えばワインなのにスコッチですか」

「はい。フランスでは食事中にはワインを、食前や食後にはフランス産のリキュールを飲むのが一般的でしたが、戦後はそれが古くさく感じられてきたのでしょう。例えばサガンの小説にもお洒落にスコッチ・ウイスキーを飲む女性が出てきます。

さらに一九六二年、フランス政府はウイスキーの輸入制限を廃止したためスーズは苦境におちいります。そんな時、スーズを助け傘下に入れたのが同じリキュール会社のペルノ社でした。社長のエマール氏がこう言ってます。『スーズがなくなることは、フランスの文化遺産のひとつを失うことだ』と」

「いい話ですね。じゃあ、そのフランスの文化遺産のスーズをいただきます。どういう飲み方がおすすめですか?」

「スーズはトニック・ウオーターで割るのが一番だと私は思います。ぜひ、お試しください」

「わかりました。ではそれで」

私は細くて背の高いコリンズグラスを出して氷を入れ、ライムを搾り、スーズを注いだ。そこにシュウェップスのトニック・ウオーターを足してステアし、彼女の前に出した。彼女はグラスを持ち、光をあてて色を楽しみ、口に入れるとこう言った。

「ああ、苦いけどおいしいです。そうかあ、こういうのをピカソたちが飲んでたんですね」

「彼らもこんなお酒を飲んで、思い切って恋心を告白したのかもしれませんね」

「恋かあ。マスター、聞いてもらってもいいですか?」

「私で良ければ」

「私が十七歳の頃のことです。母がガンで死ぬ三日前に、病院のベッドでこんなことを言いました。

『真理子、あなたに魔法の赤い口紅をあげる。この口紅はね、つけるといつもより百倍魅力的な女性になれるの。「どうしてもこの男性を振り向かせたい。どうしてもこの男性に好きになってほしい」って時が来たら、この口紅を使ってその彼の前に行きなさい。でもね、この魔法は三回しか使えないの。あなたの人生で好きになる男性は何人もいると思うんだけど、「この人!」って思った時だけ使うのよ。それからこの手紙、あなたが結婚したら開けて読んでみて。結婚するまでは絶対に開けちゃダメだからね』

『ママも、パパと出会った時にこの口紅使ったの?』

『もちろんよ。パパ、ママの唇を見てノックアウトだったみたいよ』

そう言って、母は笑い、三日後に死にました。

最初にその口紅を使ったのは高校三年生のヴァレンタインデイでした。相手は同じクラスの男子で、バスケットボール部のキャプテンで、全校の女子の憧れの的でした。

私は昼休みに学校のトイレの鏡の前で、母の口紅を初めてつけてみました。

鏡の中ではさっきまでの平凡だった私が急に華やかな女性になっていました。

私は胸をはって、教室に戻って彼にチョコレートを渡しました。

彼は私の顔とチョコレートを見て、顔を真っ赤にしてこう言いました。

『渡辺さん、これって義理チョコじゃないんだよね。ありがとう。俺も渡辺さんのこと、ずっと好きだったんだ』

私は心の中でガッツポーズをし、母の魔法の赤い口紅は本当だったんだと驚きました。

この魔法は三回しか使えません。簡単に使っちゃいけないとはわかっていながら、どうしても我慢できずに大学の時、同じ音楽サークルでギターを弾いていた男性のことが好きになり、告白する時に一回使ってしまいました。

その彼もすごくモテていたのだけど、彼も私の虜になり、口紅の魔法の威力はやっぱり本当だったんだと確信しました。

それから私は何度もいろんな恋を経験したのですが、魔法の口紅は使いませんでした。魔法は後一回なんです。もうこの人と結婚したい、この人しかいないって確信した時にこの口紅は使おうと心に決めていました。

二十四歳の時、激しい恋に落ちました。

当時、私は広告代理店に勤めていたのですが、仕事で担当する俳優の男性をただただ一方的に好きになってしまいました。

もちろんたくさんのファンがいるし、モテてモテてしょうがない状況だとは思いました。私のことなんて本当になんとも思っていないんだろうなっていうこともわかっていました。

でも、この男性を私の方に振り向かせたいと思いました。この人と恋が出来たら私はもう一生満足だと思いました。

彼はフリーの俳優で大きな事務所には所属していなかったので、マネージャーさんを介さずにメールをやり取りできる間柄になりました。私は仕事の打ち合わせのフリをして、彼を青山の小さなバーに誘いました。

もちろん私は母の魔法の赤い口紅をつけていどみました。

途中までは仕事のお話をしていたのだけど、三杯目あたりの時に彼が私の手をさわってきました。

お会計が終わって、外に出ると、彼が突然私にキスをしてきました。私はあせらず、その夜の彼のベッドへの誘いも断りました。その二週間後、彼が高級レストランで『結婚を前提に付き合ってください』と言うのを聞いてから彼の部屋に行き、ことをゆっくりゆっくりと進め、先週その彼と結婚しました。

ハネムーンから帰ってきて、彼との新居で荷物を整理していると、母からの手紙を見つけました。

そうでした。母が口紅と一緒にくれた手紙でした。私は結婚したから読んでもいいはずです。

手紙を開けると母はこんなことを書いていました。

『真理子 この手紙を読んでいるということは結婚したんだね。おめでとう。

魔法の口紅の効果はどうだった? 魔法はうまくいったでしょ?

あの口紅ね、本当はなんでもない普通の口紅なの。

でもね。「この口紅をつけると百倍魅力的になれる」って信じ込むと女の子って本当に魅力的になれるの。

そしてたっぷりと自分の魅力に自信を持って、大好きな男性の前に立つと、どんな男性もその自信がある女性の魅力に惚れてしまうものなの。

本当は真理子が大人の女になるときにそんなことを教えたかったんだけど、ママ、ガンになっちゃったから教えられないなと思って、こんな嘘ついちゃった。

でも、この手紙を読んでいるってことは、真理子の恋もうまくいったんだよね。おめでとう。幸せになってね。天国で真理子の幸せを見ているからね』

私、本当に魔法の口紅だと信じてしまってたんです。

私も女の子を産んだら、その子に魔法の口紅をプレゼントしようと思いました。

『ねえ、いい? この口紅をつけると百倍魅力的な女の子になれるのよ。でも魔法は三回だけだからね』って言ってみようと決めました」

彼女はスーズ・トニックを飲み干し、「じゃあ次はどのボトルにしようかなあ。マスター、ボトルを選ぶのってなんだか恋に似ていて楽しいですね」と、私の後ろのボトルの棚を眺め始めた。

後ろではさっきからビヴァリー・ケニーが「本当のことがわかったの。これは私の心の中のこと。魔法はあなたへの愛」とずっと歌い続けていた。

*   *   *

続きは、『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』をご覧ください。

関連書籍

林伸次『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』

誰かを強く思った気持ちは、あの時たしかに存在したのに、いつか消えてしまう――。燃え上がった関係が次第に冷め、恋の秋がやってきたと嘆く女性。一年間だけと決めた不倫の恋。女優の卵を好きになった高校時代の届かない恋。学生時代はモテた女性の後悔。何も始まらないまま終わった恋。バーカウンターで語られる、切なさ溢れる恋物語。

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恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる

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林伸次

1969年徳島県生まれ。レコード屋、ブラジル料理屋、バー勤務を経て、1997年にbar bossaをオープンする。2001年、ネット上でBOSSA RECORDをオープン。選曲CD、CDライナー執筆多数。著書に『バーのマスターはなぜネクタイをしているのか』『バーのマスターは、「おかわり」をすすめない』(ともにDU BOOKS)、『ワイングラスの向こう側』(KADOKAWA)、『大人の条件』『結局、人の悩みは人間関係』(ともに産業編集センター)、『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』(幻冬舎)などがある。

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