*幻冬舎plusフェスまであと4日!!
6月13日の「人生の居場所をどう作る? ~つながりの見つけ方、孤独との付き合い方~」に登壇する矢吹透さんは、自分が同性愛者と気づいた子供のとき、一生、自分は一人で生きていかなければならないと覚悟したといいます。大人になった今は、長く暮らすパートナーがいることに感謝しながらも、孤独は人生の基調をなすと、そこからは目をそらすことはないようです。イベント当日にもさらに詳しくお話を聞きたいものです。
「きのう何食べた?」というマンガは、矢吹さんのお宅がモデルですか?、という質問を受けることが、度々あります。
主人公の一方が私と同じ矢吹という名字であること、年格好が近いこと、同棲している男同士のカップルの物語であること、料理に対する描写が濃やかであること、など私の実生活に近い点が多いのだそうです。
残念ながら、私はよしながふみさんを存じ上げませんので、このマンガの主人公が私をモデルにしているわけではありません。
けれど、とても素敵な作品ですので、このシリーズのモデルでは?、と問われるのはうれしいことです。
自分が同性愛者であると気づいた子供の頃、私は、この先の一生を自分ひとりで生きて行かなければならない、と考えました。
お伽噺では、必ず王子様とお姫様が結ばれます。王子様と王子様、お姫様とお姫様が結ばれる噺など、ついぞ聞いた試しはありません。
自分は生涯、誰かと結ばれることはない、という大前提の下、私は長い間、生きてまいりました。
そういう人間は、自分のことはすべて、自分ひとりで出来なければなりません。
だから、私は、料理や裁縫もいたしますし、鋸を引いたり、金槌を打つことも、AV機器の配線作業やコンピュータのメインテナンスも、難なくこなすことが出来ます。
50数年生きて来て、社会も世界も変わり、私は現在、同性のパートナーと生活を共にしております。
パートナーは、寝違えた私の項に湿布を貼ってくれたり、私が不得意な部屋の天井の電球の交換などをしてくれます。
有り難いねえ、とそういう時に、私はいつも言います。
とはいえ、私は洗面台の抽斗の奥に、自分の背中に湿布が貼れる、という謳い文句のマジックハンドを仕舞っておりますし、パートナーが不在の時に切れてしまった電球は、悪戦苦闘しながら、自分の力で交換いたします。
以前、私の書いたものを評して、友人の一人に言われた、文章の奥に、孤独が常に湛えられている、という言葉に、若干驚いたことがございます。
しかし、そう言われてみれば、孤独というのは、私の人生の基調を成す何かかもしれません。
私はしばしば、「パーティ・ピープル」というような、いささか浮薄な呼称を頂戴することがあるのですが、私が人々の間で過ごす時間を求めるのも、孤独の為せる業なのかもしれないと思います。
人間はこの世に生まれ落ちた瞬間から、個の存在になり、他者と物理的に融合することは不可能です。
たとえパートナーがあって、どんなに愛し合っていても、肌を寄せ、触れ合っていても、誰かとひとつになることは出来ない、そのディレンマを抱え、人は生きて行くのです。
孤独だから、他者を求め、しかし、他者はどこまで行っても他者であり、その事実に直面し、人は更に、孤独に苛まれることになります。
ゲイに生まれた私は、人生の比較的早い時点で、人は最終的に、一人で生きて行くものだと気づくことになり、そのことは、追って、私が文章を著すようになる原動力ともなっている気もいたします。
夜更けまで、人寄せをしたり、夜の巷を漂い、宴を繰り広げ、翌朝、目覚め、我に返り、パートナーを仕事へと送り出し、それから、孤独や空虚を噛み締めながら、私はよく、エッグトーストを作ります。
スライスした食パンにバターを塗り、縁に沿って四方にぐるっとマヨネーズで壁を作ります。
壁の中に生卵を落とし、細く切ったベーコンをあしらいます。
オーブン・トースターに入れ、白身が固まって、黄身の上にうっすらと膜が出来る頃合いまで、こんがりと焼きます。
仕上げにパセリを少々、散らします。
玉子とマヨネーズのコンビネーションが、優しい味のトーストです。
生きて行くのがつらい孤独な朝、熱い濃い目のコーヒーとエッグトーストで正気を取り戻し、私はまた、新しい一日を生き始めるのです。
イベント情報
幻冬舎plus presents
「人生の居場所をどう作る?
~つながりの見つけ方、孤独との付き合い方~」
出演:山口真由/カワムラユキ/松永天馬/矢吹透
日時:2019年6月13日 OPEN 18:30/START 19:30
場所:LOFT9 Shibuya
(東京都渋谷区円山町1-5 KINOHAUS 1F)
チケット:前売¥2000/当日¥2500(税込・要1オーダー500円以上)
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日々を丁寧に慈しみながら暮らすこと。食事がおいしくいただけること、友人と楽しく語らうこと、その貴重さ、ありがたさを見つめ直すために。