忘れられない恋を誰かに語りたくなることがありませんか? その相手にバー店主は時々選ばれるようです。バー店主がカウンターで語られた恋を書き留めた小説『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』より、今週のお話。
* * *
女性ジャズ・シンガーのブロッサム・ディアリーが三十三歳の頃に録音したとても可愛いアルバムがある。その中で世界中のキュートを集めたようなルックスのブロッサムが『春の如く』という曲を歌っている。「この落ち着かない気持ちは春のような気分」という歌詞の通り、歌の間ずっと心が、春のような気分に支配されてしまう。
四月の最終日。その日は、バーの扉を開け放しておいても大丈夫なくらいの暖かい夜だった。私はブロッサムの歌う『春の如く』をかけ、ボトルを磨いていると常連の男性が来店した。
西山さんという三十五歳の独身で、フリーのライターの彼が、私のバーを取材に来たのをきっかけにして、一ヵ月に一度くらい通ってくれるようになった。髪は真ん中分けで耳にかかる程度、紺色のジャケットに白いTシャツと濃いインディゴのジーンズ、コンバースのシューズをいつもはいている。
西山さんは「こんばんは」と言うと、いつもの真ん中の席に座った。
「お飲み物は今日はどうされますか?」と聞くと、西山さんはこう話し始めた。
「実は今度、ブランデーの広告の記事を書くことになったのでマスターに教えてもらいたくて。だいたい、ブランデーって何なんですか?」
「ストレートな質問ですね。ブランデーとは果物の蒸留酒のことです。例えばブドウをお酒にするとワインができますよね。それをお鍋に入れて沸騰させるとアルコールが飛びます。その飛んだアルコールを集めて冷ましたのが蒸留酒、ブランデーですね。コニャック地方で作られたブドウのブランデーだとヘネシーやカミュが有名です。もちろんブドウ以外の果物のブランデーもありますよ」
「なるほど。じゃあコニャックは知っているので、他の果物のブランデーをいただけますか?」
「カルバドスというリンゴのブランデーなんてどうでしょうか」
「リンゴのブランデーですか。どういう飲み方がおすすめですか?」
「ブランデーはそのまま飲むのが普通ですが、カルバドスはソーダで割ってもおいしいですよ」
「じゃあそれをお願いします。ところでマスター、今かかっているの、ブロッサム・ディアリーですよね」
「よくご存じですね」
「昔、僕が住んでいた井の頭線の永福町の駅前にブロッサムという名前のパン屋があったんです。そのお店が名前の通り、ブロッサム・ディアリーしかかけていなくて」
「へえ、面白いですね。どういうお店なんですか?」
「バゲットとパン・オ・ショコラとアンパンだけしか焼いていないちょっとこだわりのパン屋でした。バゲットは外は口の中の上側が必ず切れるくらい固くて、中は柔らかくてしっとりとしていました。パン・オ・ショコラはエシレのバターとヴァローナのチョコレートがたっぷりと使われていて、小さいけど持つとずっしりとしました。寒い日に蜂蜜がたっぷり入ったホットラムとあわせると夢のようにおいしいんです。アンパンは十勝産のつぶアンがぎっちりと入っていて、春になったらアンパンの窪みのところに桜の花びらが埋め込まれたタイプのものが登場しました。
当時、一緒に住んでいた彼女がその桜の花びらがついたアンパンの大ファンで、毎年、春が近づくと『ブロッサムのアンパン、桜になったかなあ』って確認のために毎日通いつめていたんです」
「桜の花びらのアンパンですか。でもその三種類だけって思い切ってますね。小さいお店だったんですか?」
「小さかったですね。八坪くらいでしょうか。店の奥の方で五十代半ばくらいの神経質そうな男性が黙々とパンを焼いていて、レジのところに三十歳前後のいつも寂しそうな目をした女性が立っていました。
レジの後ろには茶色いレコード棚と小さなターンテーブルがあって、その女性がいつも丁寧にレコードをかけていて、そのレコードがすべてブロッサム・ディアリーだったんです。
彼女が『あの二人って夫婦なのかなあ』ってたまに言うことがあって、僕が『今度聞いてみればいいじゃない』ってそそのかすと、『そうなんだけど、違ったらと思うとなんか聞けなくて』ってつぶやいてました」
「聞いてみたいけど、そこまでプライベートに入っていいのかどうかっていう距離感の問題ですよね」
「それが一度だけ井の頭公園の動物園でブロッサムの二人を見かけたことがあったんです。二人の真ん中には五歳くらいの男の子がいて三人で手をつないで笑いながら象を眺めていました。それを見つけた彼女が『あ!』と指をさしました。そして、二人でうなずきました」
「お子さんもいらっしゃったんですね」
「はい。それが理由か、その井の頭公園の帰りに、彼女がそろそろ結婚して子供が欲しいといういつもの話を始めまして。僕の仕事がフリーだからまだまだ安定していなくて、『今まとめている文章が本になってそれが売れたら結婚するから』って言ったら、『もうその話を聞いてから二年になるんだけど』と彼女はふてくされて、喧嘩になりました。僕は彼女をひどく傷つけることを言ってしまって、その夜、彼女は出ていってしまいました。
その後も何度か連絡はしたのですが、彼女からの返信はなくて一週間後、彼女の友達が荷物を取りに来て、『伝言を預かってきました。メールアドレスと電話番号も変えたそうです。もう私に連絡しないでくださいとのことです』と僕に言いました。それで彼女とは終わりました。
僕も忘れるために、すぐに東横線沿線に引っ越してしまいました。それが三年前のことです」
「そうでしたか」
「それからは僕も仕事一筋で頑張って、やっと念願の本も出せました。本のこと、彼女にも伝えたいな、なんとか連絡をとれないかなって思って、フェイスブックで探してみたら彼女を発見しました。すぐに見つからなかった理由は彼女は結婚して名字が変わってたんです。生まれたばかりの赤ちゃんもいるようでした」
「フェイスブックでそういう形の再会もあるようですね」
「もちろん友達のリクエストはしなかったし、メッセージも送りませんでした。でもなんとなくあの頃のことが懐かしくなって、久しぶりに井の頭線に乗って、永福町の駅まで行ってみたんです。駅は僕たちが住んでいた頃とはまったく変わってしまってて、たった三年なのに浦島太郎になった気分でした。
パン屋のブロッサムのことを思い出して、お店があった場所まで急ぎました。ちょうど今だと桜の花びらのアンパンを売ってる頃だって思い出したんです。あの桜の花びらのアンパンを買おうと思いました。でも、三年で永福町の駅前が結構変わってて、『あれ? ブロッサムってどこだったんだろう』って辺りをうろうろしました。あ、と気がつくとブロッサムがあった場所はシャッターが閉まっていて『ブロッサム閉店しました』と小さい貼り紙がありました。
僕はその場でその小さい貼り紙の写真を撮って、帰りの電車の中でフェイスブックに【あの思い出のブロッサムが閉店していました】と投稿をしました。
そんなこともすっかり忘れてしまって、久しぶりにフェイスブックを開いたんです。するとブロッサムの閉店した写真にコメントがあったんです」
「どんなコメントだったんですか?」
「赤ちゃんと一緒のアイコンの彼女が、【残念! あの桜の花びらのアンパンがもう食べられない】と残してくれていました」
西山さんはカルバドスのソーダ割りを飲み干すと、「同じものをもう一杯ください」と言った。後ろでは静かにブロッサム・ディアリーが『春の如く』を歌っていた。
* * *
続きは、『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』をご覧ください。
恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる
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