爆笑必死なのにとても勉強になる『怖いへんないきものの絵』より、お送りしています!
さて、前回に引き続き、市長がサメに襲われている絵について、さらに教養深く(!?)突っ込んでまいりましょう。
この絵は、市長がかつてサメに襲われた実話を絵にしたものだ、ということを『怖い絵』の中野京子先生に教えていただきました。
タイトルにも「ワトソンと鮫」というタイトルがついているわけで、サメに違いないのですが、サメをよ~く見てください……。
ほんとに……サメ??
『へんないきもの』の早川いくをさんが、ばっちりそこを調べてまいります!
中野先生の解答からどうぞ!
* * *
(第1回「全裸でサメに襲われている名画なんだけど……なぜ裸?」からの続き)
しかし、ワトソンのことも、サメ事件も知らなかったら、この絵はやはり何のことやらわからない。当時の人は、すぐにわかったのだろうか。
「ワトソン市長は、イギリス、アメリカではよく知られていたようです。特に、当時のロンドン市民は皆、この絵を説明なしでわかったと思います。
たとえば、日本人なら小池都知事とクールビズの関係を知ってますよね。ですから、仮にもし『クールビズ』という絵画に女性が描かれていたとすると、多くの日本人は、『あ、小池都知事だな』と、推察できるようなものです」
なるほど、では、やはりこの絵は、「サメ事件」があまねく知れ渡っていることが前提で描かれたのだろう。現代日本人である私が、予備知識なしに見て首をひねるのも、仕方のないことだと思う。これは想像の活劇などではなく、いわば事件のルポ、ドキュメンタリーなのだ。
しかし、だとすると、このサメは何なのだ。
こんなサメが本当にいるのか。気になり出すと夜も眠れない。このサメ何のサメ気になるサメ。画家は何を思ってこんなサメを描いたのだろう。
「サメ」と聞くと、多くの人は反射的に「人食いザメ」を思い浮かべるだろう。だが、五〇〇種ほどが知られているサメのほとんどは、無害な存在だ。危険とされているものの中でも、人間を襲う可能性のあるものといったら、わずか数種である。
キューバでサメといえば、小説『老人と海』に登場するアオザメがまず思い浮かぶ。アオザメはサメ界でもっとも高速で泳ぎ、気性も荒いとされるが、生息しているのは外洋で、人が襲われたという記録もほとんどない。
ハバナ港、つまり熱帯の沿岸海域に現れる可能性のある、人を襲うサメといったら、ホホジロザメ、イタチザメ、オオメジロザメなどが考えられる。しかし、この絵のサメは、そのどれにも似ていない。
さらには大きさがまるでちがう。イタチザメ、オオメジロザメは全長2~3メートルのものがほとんど、一番大きいホホジロザメにしても、全長6メートルほどだ。絵のサメは、全長10メートル以上ぐらいありそうで、サメというより怪獣だ。
ワトソンは、三回、サメの攻撃を受けたという。
一度目の攻撃で、右足のふくらはぎを食いちぎられた。その後もまた二回、サメは仕掛けてきたが、船員が船の係留(けいりゅう)に使うカギ竿(ざお)で追っ払ったという。
サメの攻撃は、非常に素早かったはずだ。サメがズンズンズン……と迫ってきて、グアッと口を開け、ジャーン! という効果音と共に人間に食らいつくとあたりには悲鳴がほとばしり……といった、サメ映画でおなじみのシーンはある種のお約束、歌舞伎の見得(みえ)のようなもので、野生動物の狩りが、こんなにスローモーなわけはない。ワトソンを襲ったサメが、イタチザメにしろ、オオメジロザメにしろ、その惨事はほんの一瞬のことだったはずだ。
もしその場にカメラマンがいて、この惨劇を撮影したとしても、波間にもがく少年と、黒い影と、あわてふためく船員たちが、ブレた画像として残るばかりだったはずである。
しかしそれでは、まったく絵にならないし、話にもならない。
中野先生がおっしゃる通り、事実の描写であっても、そこには芸術としての脚色がふんだんに施ほどこされているのであろう。このサメも、いわば衣装を着て「悪役」を演じているわけである。
この絵は評判をとり、コプリーは、その後に同じものを二度、描いている。
どれも構図は一点目とまったく同じ。だがサメだけがちがうのだ。
描くたびにリアルになっていった……かと思うと、まったくそんなことはなく、何度描いても独特すぎるサメである。
しかしサメという生物の恐ろしさは、十二分に伝わる。
サメは獲物を前にすると「狂食」といわれる極度の興奮状態に陥ることがあるが、その瞬間を画家の絵筆が的確に捉えたかのようだ。
コプリーは、想像力だけを頼りにサメの恐ろしさを表現し、そしてそれは成功したのだろう。ホホジロザメは、オットセイなどを狙って、海面から豪快にジャンプすることがあるが、もしコプリーがそれを知っていたら、この絵もまったくちがった構図になっていたかもしれない。
ある医学者の推定では、ワトソンが負ったような外傷の場合、前ぜん脛けい骨こつ動脈からの大量出血、当時の外科技術のレベル、感染症の危険などを考えると死亡率は99%であったという。ワトソンが生き残ったのは奇跡といえる。よほど頑健だったのだろう。
しかしワトソンが強かったのは、体だけではない。
彼は、鋼(はがね)の魂ももっていた。普通、このような災難は思い出したくもない気がするが、彼はわざわざこれを絵画に仕立て、若人(わこうど)を勇気づけた。
さらにはこの事件をモチーフに、自らの紋章もデザインしているのだ。
その意匠には、彼の体験がそのままデザイン要素として盛り込まれている。この紋章についても、中野先生にうかがってみよう。
――いかがですか。さすがイギリス、伝統と格式が感じられる意匠ですね!
「格式はあまりないです」
――そ、そうですか。でも、切断した足をモチーフにしてあるところなども、イギリス流の小粋なユーモアと思えたのですが。
「この紋章の文字、『SCUTOーDIVINO』は、『神の盾(たて)』という意味。上にいるのがその神、ネプチューン(ポセイドン)でしょう。ギリシャ・ローマ神話に出てくる海の神です。三叉鉾(さんさほこ)が彼のアトリビュート(本人を示す持ち物)なのです。ネプチューンがサメを退治してくれて、ワトソン氏は足一本失うだけで助かった、ということですね。でも当時は勝手に紋章が作れたからかもしれませんが、よく見ると、おかしな紋章です」
――たしかに、神様にこらしめられているらしいサメも、かなり変ですね。
「人相の悪いオバQみたい」
――こんな振り込め詐欺とかやりそうなオバケのQ太郎はイヤです。何でもっとちゃんとしたサメとして表現しなかったのでしょう?
「もしかしたらワトソンさんが自分で描いたのかもしれませんね。『紋章の歴史』という本を読むと、ありとあらゆる動植物が紋章に使われていますが、これは断トツで下手な絵です」
ワトソン市長が、なぜこんな絵を紋章に入れたのかは、もはや誰にもわからない。
ワトソンは晩年、准男爵の位を受け、その翌年1807年に亡くなった。日本でいうと徳川時代のことである。
(次回は、「赤ずきんちゃん」をお送りします!)
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怖いへんないきものの絵
2大ベストセラー、『怖い絵』の著者・中野京子氏と、『へんないきもの』の著者・早川いくを氏。
恐怖と爆笑の人気者がコラボして、爆笑必至なのに、教養も深まる、最高におもしろい一冊『怖いへんないきものの絵』を、たくさん楽しんでいただくためのコーナーです。
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