これまで2000人もの終末期がん患者に寄り添ってきた緩和医療医、大津秀一先生。著書『死ぬときにはじめて気づく人生で大切なこと33』は、実際に先生が体験した患者さんとのエピソードから、本当に幸せな生き方とは何かを教えてくれる一冊です。忙しい日々を送っていると、つい忘れがちなことばかり。死ぬときに後悔しないためにも、少しだけ歩みを止めて、一緒に考えてみませんか? 33のエピソードの中から、いくつかご紹介します。
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「生きた痕跡」は残らないのか?
ある進行がん患者の三十代女性、山口さんは空虚さに苛まれていました。外来で、堰を切ったように言葉と感情をあふれさせました。
「先生、私、何も残らなかったね。私の生きた痕跡は何も残らない」
私が考え込んでいると、彼女の話は川のように流れ、流れていくのでした。
山口さんのお父さんは山口さんが中学の頃に、お母さんは社会人になって亡くなったそうです。
彼女は様々な男性と出会いましたが、皆最後は離れていきました。他の女性を選んで結婚した男性もいました。
「両親のこともあってか、何だろうなあ、薄幸そうな印象が出ていてしまったのかもしれませんね、今から考えると」
返す言葉を私は見つけることができません。
「確かにね、今はいろいろな人生を許容する社会になっていると思うの。私の友達も、バリバリ働いている人もいれば、子だくさんの人もいる。ただ、それぞれ生きている証を残していると思うの。私はそんな実感がなかったかな……」
弱々しく彼女は笑いました。
「生命力の差って人にはあると思うのね。生きる力が強い人。私はきっとそうではないほうに入るんじゃないかな。大きな光を放って、たくさんの人に影響を与える人もいる。自分の子や孫を残して、命をつなぐ人もいる。私はまるでしゃぼん玉のよう。軒より高く上がってゆくように見えたけれども、音もなく消えるの……」
私はどう声をかけようかと迷いました。それを彼女は見逃しません。
「先生、どう言ったらいいか、困っているでしょう? ちょっと眉間にしわが寄っているもの」
私は踏み込むことにしました。
「この世界にあまり残さず死んでいく……。そのほうがむしろ普通なのじゃないですか?」
「えっ!?」不意を突かれたように彼女は驚きます。
「たとえ子や孫を残したとしても、何世代かすれば、きっと私たちは忘れ去られる。どんな偉大な人も亡くなれば、次第に人の話題に上ることはなくなる。私たちは激しい時の侵食にさらされている小石のようなものなのではないでしょうか」
「それだと、ちょっと虚しくありませんか? だって、それだと、ほとんどの人が何も残さず死んでゆく、生きた痕跡はないってことだから……」
私の脳裏にある光景が浮かびました。私が拝見した八十代の独身女性が話してくれた光景です。私はそれを山口さんに伝えることにしました。
人生は「大木」のようなもの
その八十代の女性は、人生は大木であると言いました。
──大木は若木から育ち、天に枝を伸ばします。たくさんの生き物が、大木を宿り木にします。大木は立ち続けます。
時を経て、大木は年老いていきます。枝は落ち、葉もなくなります。朽ちてゆく木は傷ついた樹皮をまといながら、立っています──。
私は山口さんに問いかけます。
「朽ちゆく木の状況は本当に意味がないのでしょうか? 八十代の彼女は、微笑んでいました。笑って、『大木なのよ』と。そこには後ろ向きの響きは一切ありませんでした」
「枯れ果てた木だと言っているのに?」と山口さんは聞いてきます。
「そうです。でも想像してみてください。その枯れようとしている木は、本当に悲しい木なのでしょうか?」
山口さんはしばらく考え込んでから答えました。
「そんなことはないと思います……。ええ、きっと」
「八十代の彼女は、傷ついた老木に美しさを見たのだと思います。私も確かに、美しい木を見ました。老木は“ただ生きた”。別に何かを残そうとなんて思わなかった。けれども老木は何かを残しました。もちろん完全に枯れ果てれば、土に返り、しばらくすれば大木が立っていたことさえも忘れ去られるでしょう。けれども、最初から何もなかったわけではない。そこに痕跡は残らなくても、確かに木は生きたのです、私たちの目の前で」
彼女はうんうんと頷きました。
「問題は、痕跡にはない、ということね。姿に、でもない。この世界に、何も残らないことでもない……。私も先生もいつかは消えてなくなりますね。それを見届けた人たちも、いつかいなくなる。でも私たちが生きたという事実は消えない。どれだけ樹皮が傷んでも、大木が生きたということは消しようがない。むしろ傷ついた姿のほうが美しい。そういうことですね?」
私が頷くと、山口さんはホッとした表情を見せました。
「人の一生なんて短いですものね。私はちょっと短すぎだと思いますが……。ただ、長く生きたからたくさん残せるとも限らないし、それでも時の荒波は容赦なく記憶の痕跡すら消してしまう。それでも消えないものがあるんですね」
山口さんは自分も八十代まで生きて、この女性のような“かっこいい言葉”を残したかったと言いました。しかし、考え直したのか、静かに首を振りました。
「そうやって欲をかくのがいけないですね。私は残すとか残さないとか、そこから自由になって生きます」
世代を重ねれば、その人そのものの記憶が失われてしまうことは不思議ではありません。けれども、彼女とのひとときは、私から別の人へ、別の人からまた別の人へと、人の積み上げてきた営みは誰のものとはわからずとも、受け継がれてゆくのではないかと、私は思いました。
やっぱりちょっとは残っているんじゃないかな?──もう見ることがかなわないあの笑顔が、まるでそう語っているようです。
死ぬときにはじめて気づく人生で大切なこと33
これまで2000人もの終末期がん患者に寄り添ってきた緩和医療医、大津秀一先生。著書『死ぬときにはじめて気づく人生で大切なこと33』は、実際に先生が体験した患者さんとのエピソードから、本当に幸せな生き方とは何かを教えてくれる一冊です。忙しい日々を送っていると、つい忘れがちなことばかり。死ぬときに後悔しないためにも、少しだけ歩みを止めて、一緒に考えてみませんか? 33のエピソードの中から、いくつかご紹介します。