行政権に全く関われないという現実
私がこの問題に気づいたのは、今住んでいる東京都小平市で、都道の建設問題が起こった時だった。行政が道路を作ると言い出すと、住民への「説明会」さえ開催すればそれでよいというシステムができあがっていた(第一章参照)。住民は行政の決定過程に全く関われない。少なくともオフィシャルな仕方では関われない。私はこう考えた。行政が住民の意思を完全に無視して事を進められる政治体制が、どうして「民主主義」と呼ばれているのか?
先に説明したように、この問いに対する答えは、私が研究している哲学に関わるものであった。近代の政治哲学は、主権を立法権として定義し、立法権こそが統治に関わるすべての物事を決定する権力であると考えてきた。だから民主主義に関しても、どんなに不十分であれ、民衆が立法権にさえ関わっていれば、その政治体制は民主主義であるという理屈がまかり通ってしまう。
この理屈は単純に誤っている。だが、この単純な誤りがなぜかこれまで指摘されてこなかった。
実際、「政治家は何も物事など決めていない。実際に物事を決めているのは官僚だ」というのはやや聞き飽きた感すらある指摘だ。これは誰でも経験的に知っている。ニュースや世の中を見ていればすぐに分かることだ。そしてまた、現在の民主主義がどこかおかしいということも、誰もがなんとなく気づいている。ところが、この政治についての経験知と、民主主義に対するボンヤリとした不満とを結びつける試みがなかった。
では、どうすればよいだろうか? その前提に大きな、しかし実に単純な欠陥を抱えていた政治理論のもとで、どうやって新しい民主主義を構想していけばよいのだろうか?
本書の主張は単純である。
立法府が統治に関して決定を下しているというのは建前に過ぎず、実際には行政機関こそが決定を下している。ところが、現在の民主主義はこの誤った建前のもとに構想されているため、民衆は、立法権力には(部分的とはいえ)関わることができるけれども、行政権力にはほとんど関わることができない。
確かに県知事や市長など、地方自治体の行政の長を選挙で選ぶことはできる。しかしだからといって行政の決定過程に民衆が関わっているとは到底言えない。そもそも個々の政策には全く口出しできない。それでも「民主主義」と言われるのは、行政機関は決められたことを実行していく執行機関に過ぎないと、つまりそこに民衆が関わる必要などないと考えられているからだ。
ならば、これからの民主主義が目指すべき道は見えている。立法権だけでなく、行政権にも民衆がオフィシャルに関われる制度を整えていくこと。これによって、近代政治哲学が作り上げてきた政治理論の欠陥を補うことができる。主権者たる民衆が、実際に物事を決めている行政機関にアクセスできるようになるからだ。
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