哲学に携わる者としての責任
ここでもう一度、理論的な問題に戻って議論を整え、この「はじめに」を終えたい。民主主義、あるいは議会制民主主義については、既にいくつかの典型的な意見がある。それらを予め検討しておこう。
「日本は議会制民主主義、すなわち間接民主制だから、住民投票のような直接民主制の制度を利用する必要はない」という意見をたまに聞く。政治哲学について何も知らない人ならともかく、「学者」と称している人からこのような意見を聞くこともあるから驚いてしまう。
間接民主制か直接民主制かという問題設定自体が、そもそも問題を掴み損ねていることはここまでの説明からでも十分に理解できるだろう。主権を立法権として定義し、立法府を決定機関と見なす(したがって行政機関を単なる執行機関と見なす)近代政治哲学の理論的前提が問題なのであって、間接か直接かは問題ではない。そもそも──実際には不可能だろうが──有権者の全員が参加する直接民主制の議会が作られたとしても、問題は少しも解決しない。立法権によってすべてを統治することは不可能なのだから、結局は行政が様々な事実上の決定を下すことになるだろう。
「直接民主制が本当は望ましいが、それはできないから間接民主制にしているのであって、間接民主制は必要悪である」という意見もよく聞くのだが(誰がこんなことを言い始めたのだろうか?)、これも全く問題を捉え損ねている。今述べた通り、問題は直接か間接かというところにあるのではなく、立法権ですべてを制御しようという発想そのものにある。仮に有権者の全員が参加する直接民主制の議会が作られたとしても、実際の政策決定を行政が行うという問題は少しも解決しない。
この意見は、「間接民主制は必要悪である」という勘違いによって、実際には行政が政治的決定を下しているという本質的な問題を覆い隠してしまっており、その意味で極めて有害と言わねばならない。「今の政治体制が民主的でないのは間接民主制のためだが、これは必要悪なのだから仕方ない」というとんでもない解釈が出てきかねないのである。
民主主義について考えるというと、私たちは民衆が立法権にどう関わっているか、どう関われているかという点ばかりを考えてしまう。つまり、立法府たる議会と民衆の関係ばかりを考えてしまう。しかし、現在の民主主義の問題を正面から考えるためには、立法権が議会に委ねられた時よりも前に遡らねばならない。立法権によって主権を定義し始めた時のことを問題にしなければならないのである。その定義は政治哲学によってなされた。だから、今の民主主義の欠陥に対して、哲学は責任を負っている。哲学に携わる者が、何としてでもこの問題を考え抜かねばならない。本書はそのためのささやかな貢献である。
本書の構成を説明しておきたい。
哲学の研究をしている私が、以上に説明してきた近代民主主義の問題に気づいたのは、地元の東京都小平市で道路の建設問題が起こった時であった。住民の間から反対運動が起こり、最終的には都内初の直接請求による住民投票が行われるに至った。そこで、まず第一章で、都道328号線の問題と、その是非を問う住民投票が実施されるまでの経緯を詳しく紹介する。
第二章ではそうした経緯を踏まえ、住民自治と現在の民主主義について状況論的な分析を行う。住民運動の諸問題についてもできる限り解説したい。
第三章では前文に説明してきた、現在の民主主義と政治哲学の問題をより詳しく説明する。前文で紹介した論点は、もちろん、単に私が一人で考えたものではない。既に研究がある。最新・最先端の研究を紹介しながら、民主主義の問題点を詳しく検討する。そのためにはまず、「政治とは何か?」という基本的なところから議論を説き起こさねばならないだろう。
第四章ではこれからの民主主義を考えるための提言を行う。おおまかな内容は前文に紹介した通りだが、それに理論的な裏付けを付け加えるために、再び哲学の手を借りる。また、住民投票やパブリック・コメント、ワークショップなど、現行の制度の状況についても事例を通じてより詳しく紹介する。理論と事例を通じて、今後の民主主義の方向性を見定めたい。
第五章は民主主義という理念そのものについて考える。しばしば「日本には民主主義が欠けている」という言い方を耳にする。しかし、そこで思い描かれている「民主主義」とは何だろう? 「欠けている」と言うためには、その欠けているものの姿がはっきりと見えていなければならない。すると、実現されるべき民主主義の完成形は分かっているが、それが様々な障害によって実現されていない……ということなのだろうか? ある哲学者の言葉をもとに、これを考えたい。