立法府がすべてを決めるという建前
今問題にしている近代政治理論の前提とは、立法権こそが統治に関わるすべてを決定する最終的な権力、すなわち主権だ、という考えである。主権者が一定の領域内を支配し、治めることを「統治」と言う。近代の政治理論は、立法によって国家を統治することを目指したのだと言うことができよう。
立法とは法律を作ることである。法律は作られたら適用されねばならない。国または地方公共団体が、法律や政令、その他条例などの法規に従って行う政務のことを「行政」という。国ならば省庁、地方公共団体なら市役所や県庁などがこの行政を担っている。さて、近代政治理論によれば、主権は立法権として行使されるのだった。すると、そこで思い描かれているのは、主権者が立法権によって統治に関わる物事を決定し、その決められた事項を行政機関が粛々と実行する、そういった政治の姿であることになろう。
たとえば日本の国政で言えば、国会が立法という形ですべてを決定し、各省庁に勤める官僚たちがそれを粛々と執行する……。地方自治体で言えば、市町村・都道府県の議会が条例制定・予算案承認といった形ですべてを決定し、市町村役場・都道府県庁の職員たちがそれを粛々と執行する……。そういう前提になっている。これは別に日本が独自に決めたやり方ではない。近代初期に、政治哲学によって作られた主権の概念に基づいて採用されているやり方である。
しかし、誰もが知っているし、しばしば指摘もされているように、議会が統治に関わるすべてを決定しているとか、行政は決定されたことを執行しているに過ぎないというのは誤りである。なぜなら、行政は執行する以上に、物事を決めているからである。
たとえば新しい保険制度が作りたい。それを考えるのは官僚である。官僚がそれを議員のところにもっていく。議会では「はい、これでいいです」とお墨付きをもらうだけである。
あるいは、新しい道路を作りたい。「ここに道路を作ったらどうか?」「そこに作るのはおかしいでしょう?」などと議会で話し合ったりはしない。すべて役所が決めるのである。議会はその予算案を承認するだけだ。
実際に統治に関わる実に多くのこと、あるいはほとんどのことを、行政が決めている。しかし、民衆はそれに関われない。私たちに許されているのは立法権に(ごくたまに、部分的に)関わることだけだ。
それではとても「民主主義」とは言えないように思われる。民衆が実際の決定過程に関われないのだから。しかし、それでもこの政治体制は「民主主義」と呼ばれている。なぜか? 立法府こそが統治に関わるすべてに決定を下している機関であり、行政はそこで決められたことを粛々と実行する執行機関に過ぎないという前提があるからだ。この前提、主権を立法権と見なす前提があるために、実際に物事を決めている行政の決定過程に民衆が全く関われなくても、「民主主義」を標榜できるようになってしまっている。
ここにあるのは実に恐ろしいシステムである。主権者たる民衆は実際の決定過程からははじかれている。だが、にもかかわらず体制は民主主義の実現を主張できる。立法権こそが主権であり、立法権を担う議会こそが決定機関であるという建前があるために、民衆が立法権にさえ関わっていれば、どんなに選挙制度に問題があろうとも、どんなにその関わりが部分的であろうとも、その政治体制を民主主義と呼ぶことができる、そういうシステムが作り上げられているのだ。
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