元刑事が絞殺された。警視庁捜査一課の兎沢は、国家を揺るがす大事件の真相に元刑事がたどりついていた糸口をつかむ。そこに立ちはだかったのは公安部の志水。事件の解決を急ぐ刑事部と、隠蔽をもくろむ公安部……。組織の非情な論理が、2人の絆を引き裂く。
第26回山本周五郎賞、第16回大藪春彦賞にもノミネートされた『血の轍』。多数の話題作で知られる相場英雄の、胸打つ警察小説だ。最新作『キッド』の刊行を記念し、物語の冒頭をお届けします。
* * *
新しい上司に命じられ、男は目の前の液晶モニターを凝視する。その途端、壁に埋め込まれたスピーカーから無線が響く。
〈お客さんが改札出ました。明治屋に向かいます〉
ダークグレーのスーツを着た女が映ると、男は思わず口元を手で覆う。なぜこんな場所にいるのか。サングラスをかけているが、男がよく知る女だ。
改札を出た女は、やや早足で歩き始める。
「彼女の後方三メートルのところに、隠しカメラを持った要員がいるんだよね」
抑揚を排した声で上司が告げる。
腫れぼったい瞼だが、奧にある瞳は鈍い光を発し続け、モニターを睨む。男は動揺を悟られまいと、必死に呼吸を整える。
宅配業者を装った大型バンの車内で、男は画面を見続ける。
いきなり広尾に呼び出された理由が分からなかった。モニターに映る光景が答えなのだ。新しい職場は、自分になにをさせるのか。
女を追うカメラが二、三度揺れる。自分の心が鷲掴みされたような錯覚に陥る。だが、実際は女の異変が揺れの根源だった。
交差点の信号が青にも拘らず、女が突然歩みを止める。否応なく、カメラ要員も足止めを食らう。買い物客やサラリーマンが激しく行き交う交差点で、女はなんども周囲を見回す。
〈お客さん、点検始めました。脱尾します〉
スピーカーから無機質な声が響く。
「次の人頼むね。気付かれちゃだめだよ」
上司が指示を発した直後に信号が点滅を始める。女は赤に変わる間際の横断歩道を駆け足で渡る。
「でも、所詮は素人なんだよね」
上司が吐き捨てるように言うと、スピーカーから新たな要員の声が響く。
〈明治屋のロビーで待機中、こちらで追尾します〉
同時にモニター画像も切り替わる。女をスーパーの中から待ち受ける構図だ。
女は混み合う高級スーパーに入った。生鮮食品売場を五分ほどそぞろ歩くと、今度は売場の外れに向かう。
待機中という言葉は、追尾チームが女の行動パターンをある程度把握しているということだ。いつから監視を続けていたのか。男が首を傾げると、真横の上司がマイクを握る。
「トイレに行くみたいだね。カバーできる?」
〈私が追尾します。トイレの出入口は一カ所のみで、カゴ抜けは不可能です〉
今度は若い女の声が響く。追尾要員が再度交代した。広尾駅から既に三名がサングラスの女に張り付いている。
スピーカーからは水道の音が聞こえる。カメラが女の後ろ姿を捉えたあと、今度は斜め横のアングルから洗面台と鏡の中が映る。
サングラスを外した女が口紅を塗り直す。モニター越しだが、かすかに瞳が潤んでいるように見えた。
上司が手元のスイッチを切り替えた。別の要員への連絡だ。
「商店街担当、もうすぐお客さんが行くよ」
〈いつでもどうぞ〉
スピーカーから嗄れた男の声が聞こえる。女が高級スーパーを後にした。
買い物客でごった返す夕暮れの商店街にまで人員が配置されている。監視要員はこれで四人目だ。男は画面を凝視し続ける。追尾カメラは外苑西通りから広尾商店街の奥に向かい始める。
女は明らかに歩みを速める。
一方、男は膝に置いた拳に目を向けた。
自らの意思とは関係なく、拳が小刻みに震える。もはやモニターを見る気力が残っていない。目線を外した途端、上司が抑揚のない口調で告げた。
「見続けてね。瞬きも許可しないから」
素っ気ない言いぶりだが問答無用の力が籠る。金縛りにあったように、男は肩に震えを覚えた。