元刑事が絞殺された。警視庁捜査一課の兎沢は、国家を揺るがす大事件の真相に元刑事がたどりついていた糸口をつかむ。そこに立ちはだかったのは公安部の志水。事件の解決を急ぐ刑事部と、隠蔽をもくろむ公安部……。組織の非情な論理が、2人の絆を引き裂く。
第26回山本周五郎賞、第16回大藪春彦賞にもノミネートされた『血の轍』。多数の話題作で知られる相場英雄の、胸打つ警察小説だ。最新作『キッド』の刊行を記念し、物語の冒頭をお届けします。
* * *
「もう勘弁してください」
駄々をこねる子供のように強く頭を振る。自分の声が絶え絶えになっていくのが分かる。
「だめだよ。これは命令だからね」
凍てついた声だ。男は恐る恐るモニターに視線を戻す。
〈店に入ります〉
直後、女が酒屋の手前で左に折れた。
「準備は大丈夫?」
〈秘撮、秘録ともに万端です〉
今度はよく通る若い男の声だ。これで五人目になる。
新しい配属先は、どれだけのメンバーを揃えているのか。ここまで徹底して追尾する理由はなにか。男が秘かにモニターから視線を外すと、上司の手が男の肩にのった。鉛の塊を落とされたような重みを感じる。
「これから見る光景を全て瞼に焼き付けておいてね」
上司が切り替えボタンを押すと、白木のカウンターと大きな湯呑みが映る。寿司屋のようだ。カウンター近くに置いたバッグから、店の奥方向を見渡せるアングルだ。引き戸の音が響く。女が入ってきた。
〈いらっしゃい。お連れ様は少し遅れるそうです。お先にビールでも?〉
〈いえ、待ちます〉
女の声が少しだけ上ずる。
カメラは女の胸元を映し出しているが、アングルの関係で表情は見えない。だが、男には女の表情が手に取るように想像できる。
「今日は浜松で親戚の法事のはずだよね?」
上司の問いかけに頷いたとき、再び引き戸が開いた。
〈こんばんは〉
低音が響く。マイクの方向が悪いのか、連れの声は極端に聞き取りづらい。
「絶対に目を逸らしちゃだめだよ」
上司の声が鼓膜を鋭く刺激する。
女の奥側に連れの男が座った。スーツの胸元だけが映る。連れはおしぼりでゆっくりと手を拭いている。
〈今日は平気なんですか?〉
女が甘えた調子で尋ねると、連れの男が小さく頷く。すると女がカウンターの下に手を回し、男の分厚い掌をまさぐる。
女の動作で、また心臓を鷲掴みされた感覚に襲われる。不意に、胃液が喉元まで逆流する。男は慌ててドアを開け、バンを飛び出した。
喉元がヒリヒリと焼ける。胃液をなんとか腹の底に押し戻すと、上司の容赦ない声が耳元で響く。
「やめさせないよ。早く戻って。次の指示出すからさ」
「もう無理です」
「だめだよ」
上司はさらに強い口調で言う。男は上司の手招きに応じてバンに戻る。
「相手は誰ですか?」
「現段階で知る必要はないね」
「しかし、妻は本職に嘘をついているんです」
「いずれ分かるときが来るから」
腫れぼったい瞼の奥で、瞳が鈍い光を発する。上司が言葉を継ぐ。
「任務に私情はいらない。今までの君は死んだよ」
雷に打たれたように男は硬直した。死んだとはどういう意味か。
「生まれ変わるんだ」
再度上司が言い放つ。
「見てごらん」
画面に目をやった。カウンターの隅で、妻が連れの男に体を寄せる。
「もっと見て」
頬が引きつっていくのが分かる。だが、上司に抗わない自分がいた。無意識のうちに体と意識が乖離していく。
この屈辱を一生忘れない。自らの眦がキリキリと音を立てて切り裂かれていく。胸の中に響く軋んだ音を聞きながら、男は画面の妻を睨み続けた。