元刑事が絞殺された。警視庁捜査一課の兎沢は、国家を揺るがす大事件の真相に元刑事がたどりついていた糸口をつかむ。そこに立ちはだかったのは公安部の志水。事件の解決を急ぐ刑事部と、隠蔽をもくろむ公安部……。組織の非情な論理が、2人の絆を引き裂く。
第26回山本周五郎賞、第16回大藪春彦賞にもノミネートされた『血の轍』。多数の話題作で知られる相場英雄の、胸打つ警察小説だ。最新作『キッド』の刊行を記念し、物語の冒頭をお届けします。
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新米の巡査部長がクラウンの後部ドアを開け、待機している。
「本部へ」
目頭を強く押したあと、海藤啓吾は後部座席に体を預けた。昨晩午後一一時過ぎにJR吉祥寺駅前商店街で発生した通り魔殺人事件は、二時間前にスピード解決した。
ナイフを振り回した男がアーケード街で無差別に通行人を斬りつけた。若いOLが失血性のショックで死亡し、大学生とサラリーマンの計四人が全治三カ月の重傷を負った。
所轄の武蔵野署と警視庁捜査一課第三強行犯捜査第五係が直ちに現場に臨場し、一帯に非常線を張ったほか、捜査支援分析センター(SSBC)も駆け付けた。
第一報から一時間半後に海藤は武蔵野署に設置された捜査本部に入り、報告を受けた。
その後、機動捜査隊と所轄署地域課、そして本部一課の精鋭たちの動きを確認し、隼町の官舎に帰った。
夜回りの記者たちに事件の早期解決方針を告げ、シャワーを浴びたのが午前四時前だった。ソファでうたた寝していた四時半に連絡が入り、被疑者の身柄確保の報せを聞いた。
午前五時半に武蔵野署に取って返し、取調室の犯人を現認した。
犯人は三二歳、無職の男だった。転職に失敗し、むしゃくしゃしていたとの主旨で供述を始めた。あまりにも身勝手な犯行動機に強い憤りが腹の底から湧き上がる。
後部座席でこめかみを掴み、海藤は強く頭を振った。寝不足による偏頭痛が起きそうだ。不規則な食事と睡眠のせいで、体重が増加の一途を辿る。下腹をさすり、あくびを押し殺す。ハンドルを握る巡査部長に声をかけた。
「帳場(捜査本部)で感じたことは?」
初めて本部勤務になった若手の教育は、現場でその都度行うのが海藤の信条だ。
「防犯カメラの解析ですが、本職の予想より遥かに早く実行されました」
凶行の現場となった商店街に対しては、第五係の警部補が中心となり、迅速な映像の提供を求めた。また、正式に発足したばかりのSSBCが抜群の働きを見せた。今まで、一課や三課、あるいは組織犯罪対策部が独自に運用していた防犯カメラの分析作業が本部内で統一された。吉祥寺の事件でも、SSBCの情報支援班のメンバー五名が素早く回収した映像を解析した。
商店街が運用する防犯カメラのほか、コンビニやファストフード店の専用カメラも当たった。個人商店からも小さなメモリーカードを五〇枚ほど集めた。また、第五係の警部補の気転により、アーケード街から半径二キロ範囲の住宅街にも捜索範囲を広げた。
SSBCの情報支援班機動分析係が捜査本部でデータ解析を始めてから三〇分で、犯人の逃走経路が次々に明らかになった。犯行発生時刻から一、二分ごとのデータを連結させると、パーカーのフードを被った犯人がコマ送りのようにモニターにつなぎ合わされた。
決め手となったのは、商店街から五〇メートルほど離れた一般住宅の門扉に設置された防犯カメラだ。
所轄署員が押収した親指の爪ほどのメモリーカードには、赤外線センサーで不審者を自動感知した映像が残っていた。追跡を継続していた捜査員に直ちに連絡し、三軒隣の物置に潜んでいた犯人の身柄を確保した。
「この種の事件はスピードが命だ。指示待ちするよりも自ら帳場の流れを作っていくことが肝心だ」
ルームミラー越しに説くと、海藤は腕時計に目をやる。午前七時だった。首筋や肩にかけて、鈍痛が走る。様子を察した若手が口を開く。