元刑事が絞殺された。警視庁捜査一課の兎沢は、国家を揺るがす大事件の真相に元刑事がたどりついていた糸口をつかむ。そこに立ちはだかったのは公安部の志水。事件の解決を急ぐ刑事部と、隠蔽をもくろむ公安部……。組織の非情な論理が、2人の絆を引き裂く。
第26回山本周五郎賞、第16回大藪春彦賞にもノミネートされた『血の轍』。多数の話題作で知られる相場英雄の、胸打つ警察小説だ。最新作『キッド』の刊行を記念し、物語の冒頭をお届けします。
* * *
「無線切りますから、本部に着くまでお休みください」
「俺はどんな状況でも眠れる。それに指令を聞かないわけにはいかんだろうが」
おどけた口調で言ったあと、海藤は腕を組み、目を閉じる。
警視庁刑事部鑑識課長から捜査一課長に異動して五カ月が経過した。
官舎の寝室でまともに眠れた日は数えるほどしかない。時間を継ぎはぎして睡眠時間を確保しないと、任期を全うできないと前任者から教わった。大げさだと思ったが、五四歳になった今、勤務実態は想像以上に過酷だった。
青梅街道に入った課長車は、速度を上げる。
フロントガラスの向こう側に新宿の高層ビル街が見え始める。追い越した都営バスのボディーに、開業したばかりの東京スカイツリーの広告がプリントされている。車中に朝日が差し込む。重い瞼に強い陽の光が染みる。また長い一日が始まる。
午前の定例記者レクチャーでは昨夜の事件の詳細を発表しなければならない。午後は別の帳場に出向き、捜査の進捗をチェックする。頭の中で、様々なスケジュールが交錯する。
小刻みでもいい。可能な限り睡眠を取る。三〇年を超える刑事人生で身に付いた習慣だった。車の揺れに身を任せると薄らと意識が遠のいていく。中野坂上交差点の信号機がぼやけて見えた。
〈至急至急、本部指令より各移動〉
突然、ダッシュボード下の無線機が鳴った。反射的に目を開ける。
〈新宿区戸山二丁目、都立戸山公園敷地内にて変死体発見の一一〇番通報〉
通信指令本部オペレーターの声が無線機から響く。
〈中年男性の首吊り〉
〈牛込署地域課巡査が臨場し、現場保全に当たっている〉
〈第二機捜隊本部、了解〉
本部と所轄署、機動捜査隊のやりとりを聞きながら、海藤は戸山公園の広大な敷地を思い起こす。
かつて高田馬場駅にほど近い戸塚署で刑事課長を務めた。公園の東部分は牛込署、西半分は戸塚署の管轄だ。不良外国人による薬物取引の内偵のほか、ホームレス同士のトラブルで牛込署となんども連携した。戸山二丁目は総務省統計局や大きな国立病院の近くに広がるエリアだ。
「自殺でしょうか?」
ルームミラー越しに巡査部長が尋ねる。
「だといいがな」
「まさか他殺ですか?」
「なんとも言えん。こういう事案で大事なことは?」
「初動です。まず検視官の臨場を」
再度無線機が鳴る。
〈至急、戸山公園の変死体、所持品から本人確認。遺体はカガワツヨシ、杉の屋デパート勤務……〉
名前を聞いた途端、海藤は身を乗り出す。カガワツヨシ。まさかと思うと、反射的に体が動いた。
「無線のマイクを取ってくれ」
巡査部長がダッシュボード下のマイクを差し出す。
「一課海藤だ。仏の名前だが、念のため漢字を教えてくれ」
マイクの通話ボタンに手をかけ、海藤は指令本部を呼ぶ。二、三秒の間があったあと、オペレーターが応答する。
〈香川県の香川、ツヨシは剛健の剛です〉
「了解。一課長権限で検視官の臨場を要請。近隣各署の移動は現場付近および幹線道路で不審者、車両の有無を確認せよ。以上」
〈本部了解〉
一気に指示を飛ばし、海藤はマイクを巡査部長に戻した。