元刑事が絞殺された。警視庁捜査一課の兎沢は、国家を揺るがす大事件の真相に元刑事がたどりついていた糸口をつかむ。そこに立ちはだかったのは公安部の志水。事件の解決を急ぐ刑事部と、隠蔽をもくろむ公安部……。組織の非情な論理が、2人の絆を引き裂く。
第26回山本周五郎賞、第16回大藪春彦賞にもノミネートされた『血の轍』。多数の話題作で知られる相場英雄の、胸打つ警察小説だ。最新作『キッド』の刊行を記念し、物語の冒頭をお届けします。
* * *
「お知り合いですか?」
恐る恐る巡査部長が切り出すと、海藤は頷いてみせる。
「仏は元本職だ。今の勤務先で分かった。現場に行くぞ」
巡査部長が頷く。元警官だと聞かされ、瞬時に事情を察したようだ。
警察官を勤めれば退職後も様々な鑑が残る。
業者との癒着のほか、逮捕された恨みを抱き続ける犯罪者もいる。他殺の線も考えねばならない。
海藤は香川とはともに捜査をしたことはないが、職人肌の警部補だったと聞いていた。小柄で眉毛の太い男の顔が脳裏に浮かぶ。死因はなにか。腕組みしながら様々な筋を考える。
巡査部長がサイレンアンプのボタンを押した。即座にクラウンの屋根に赤色のパトランプが飛び出す。
「殺しだとしたら、怨恨ですか?」
「まだ分からん。予断を持つな」
〈課長、第四の七係が臨場します〉
無線機からくぐもった声が響く。
「今の声は兎沢さんでしたね」
「あいつは昨晩の予備班だったな」
吉祥寺の通り魔事件は当直の第三強行犯第五係が担当した。別の凶悪事件の発生に備えていた第四の七係が宿直明け直前に戸山の案件に着手する。目付きの険しい男たちの顔を思い浮かべたとき、突然、海藤の背広の中で携帯電話が震えた。
小さな画面に馴染みのない番号が点滅する。東京〇三に続く頭の四ケタは警視庁本部だが、下の番号に覚えはない。首を傾げながら通話ボタンを押す。
〈ご無沙汰しています。公総の志水です〉
声を聞いた途端、耳に当てた電話から冷気が伝わってくる。海藤は思わず身構えた。なぜ連絡を入れてきたのか。唾をのみこんだあと、口を開いた。
「どうした?」
〈無線を聞きました。本当にあの香川さんですか? 自殺でしょうか?〉
「なぜだ?」
〈新宿で一緒だったものですから〉
「俺が臨場する。まだ、なにも分かっていない」
一方的に電話を切ると、巡査部長が心配げな顔で見ていた。
「どなたですか?」
「瞬きをしない男だ」
「あの……本部の方ですか?」
「今は一四階の住人だ。いいから急げ」
ぶっきらぼうな海藤の返答に巡査部長は口を閉ざした。本部の階数を聞いた途端、巡査部長は海藤の変化を素早く察知した。
現場に急行中の一課兎沢と公総の志水はともに戸塚署時代の海藤の部下だった。今は全く別のレールを走る二人の警察官が海藤の前で交差した。偶然か。それともなんらかの事情が潜んでいるのか。
フロントガラス越しの空には小さな鰯雲が浮かんでいる。だが、志水の声を聞いてから、心中にどす黒い雷雲が湧き始めたような重苦しい感覚に襲われた。後頭部に偏頭痛の鈍い痛みも走る。
突然頭に浮かんだ元部下の顔を振り払うように、海藤はこめかみを強く掴んだ。