上海の商社マン・王作民と福岡空港に降り立った城戸護。かつては陸上自衛隊でレンジャーの称号を得た兵士だった。城戸は、王を監視する刑事の存在を察知。不審に思いながら護衛を続けると、秘書が王を射殺し、自死してしまう……。
第26回山本周五郎賞、第16回大藪春彦賞にノミネートされた『血の轍』をはじめ、数々の話題作で知られる相場英雄。最新作『キッド』は、超監視社会の闇を描き切る、警察ミステリーの金字塔だ。その冒頭を、特別にご紹介します。
* * *
プロローグ
左耳のイヤホンに神経を尖らせながら、男は口元の一体型マイクに向け、小声で告げる。
「作戦指揮所、こちらファルコン、送れ」
ハウリング音が耳の中で響いたあと、くぐもった声が一八〇〇キロ離れた場所から届く。
〈ファルコン、先ほどの報告は本当か?〉
「行動は極めて迅速。十分に訓練された兵士と思われる」
男が兵士と言った途端、指揮官が息をのんだのが衛星電話越しでもわかる。男は周囲の隊員たちに目をやったあと、朝靄に霞む二階建ての建物と、その中心から伸びる太い煙突状の建造物を暗視用望遠鏡で見た。時刻は午前四時一五分。夜明けの遅い島の空が明るくなるのは、あと二時間半後だ。
管制塔の最上部に細い光がいく筋も走っている。小型ヘッドライトの光だ。絶対に漁民などではない。特別な訓練を受けた兵士たち、それも揚陸と制圧作戦に長けた強者だ。
「二分前に二名を偵察に出した。まもなく詳細な報告が入る。目視で敵の総数は一二名」
男が報告した直後だった。前方約三〇〇メートルの地点で五、六本の閃光が走り、乾いた破裂音が響いた。
〈今の音はなんだ?〉
「敵の発砲と考えられる」
男は左前方で軽機関銃を構える部下に目配せをした。部下が周囲にいた他の隊員にハンドサインを送り、低い姿勢を保ったまま、広いアスファルト路を素早く横切った。
「あと三名、偵察に出した。敵対行動を確認次第、攻撃許可を」
冷静さを失いかけている様子の指揮官とは対照的に、男の心は驚くほど落ち着いていた。これはまぎれもない実戦だ。三時間前、突然レーダーに出現した不審船がこの島に接近し、急遽出動を命じられた。そのときから、男は理詰めで様々なシナリオを描いてきた。偵察隊が威嚇攻撃される可能性も想定していた。
男は右脇に控える部下に目を向けた。自分の口元にあるマイクとヘルメットの縁近くにあるイヤホンを素早く指さす。部下は首を振る。
「先発させた二名といまだ連絡とれず」
〈撃たれたのか?〉
指揮官が沈痛な声で尋ねてきた。男はもう一度、前方の建物を注視した。北緯二四度、東経一二五度に位置し、エメラルドグリーンの海に囲まれた細長い島。先ほどの破裂音のあとは、不気味な静寂に支配されていた。
「防衛出動の下命はまだか?」
〈大臣と統合幕僚長が官邸に入った。総理のご決断を待っている〉
指揮官の声が沈んでいた。日頃勇ましい言葉を叫ぶ最高指揮官はなにを迷っているのか。
〈隊長、スパローとターンの被弾を確認!〉
左耳に部下の声が響いた。
〈両名ともに眉間を撃ち抜かれて死亡。スナイパーがいます!〉
全身が粟立った。部下たちと過ごした厳しい訓練の光景が頭をよぎる。男は唇を強く嚙んだあと、口を開く。
「隊員二名、死亡。繰り返す、二名死亡。速やかに防衛出動の下命を。このままだと敵に西日本全域の制空権を奪われます!」
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第一章 帰郷
小さなレンゲでスープをすくい、口に運ぶ。鯉と鶏ガラの出汁が混ざり合い、軟らかく炊かれた粥がじんわりと胃に沁みていく。城戸護は小皿から油条を取り上げ、朝粥の丼に少しだけ浸した。新鮮な油で揚げられたパンが、滋味深いスープをみるみるうちに吸い上げる。軽めの粥と油条は絶妙のバランスで城戸の胃袋を満たす。三日に一度訪れる屋台の味はいつも通りだ。
「早晨(おはよう)! KID」
香港・九龍半島の台所、油麻地市場近くの街角に元気の良い少年の声が響き渡った。城戸が顔を上げると、笑みを浮かべたホイが駆け寄ってくる。
「我都餓了(俺も腹が減ったよ)!」
「問你中意吧(好きなやつを頼みな)」
城戸も広東語で告げた。一〇歳のホイが再び笑みを浮かべ、屋台の主人に豚レバーと肉団子の粥を威勢よくオーダーした。
「それで、俺になんの用だ?」
「アグネスからメモを預かってきたよ」
ホイは短パンのポケットから折り畳まれたメモを取り出し、城戸の丼の脇に置いた。
「仕事かよ。ゆっくり写真を撮れると思ったのに」
城戸はたすき掛けにしていた古いフィルムカメラ、ライカM6のシルバーのボディーに手を添えた。前回の仕事を終えて香港に帰ったのが一週間前だ。ロンドンで不味い飯を一〇日も食べ続け、神経質なクライアントに振り回された。
ようやくホームグラウンドの九龍の下町に戻ったのだ。愛機M6にモノクロのフィルムを詰め、垢抜けない街の風景、ガツガツと逞しく生きる地元民を心ゆくまで撮り続けるつもりだった。