上海の商社マン・王作民と福岡空港に降り立った城戸護。かつては陸上自衛隊でレンジャーの称号を得た兵士だった。城戸は、王を監視する刑事の存在を察知。不審に思いながら護衛を続けると、秘書が王を射殺し、自死してしまう……。
第26回山本周五郎賞、第16回大藪春彦賞にノミネートされた『血の轍』をはじめ、数々の話題作で知られる相場英雄。最新作『キッド』は、超監視社会の闇を描き切る、警察ミステリーの金字塔だ。その冒頭を、特別にご紹介します。
* * *
城戸はリーバイスのデニムのポケットをまさぐり、二〇香港ドル紙幣をテーブルに置いた。すかさずホイが手を出すが、城戸は札を押さえる。
「どこを探しても俺はいなかった。アグネスにそう伝えてくれたら、二〇ドルやるよ」
ホイが強く首を振る。
「この前もその手を使ってアグネスに怒られたばかりじゃないか。俺は悪事には加担しないよ」
腕を組んだホイが頬を膨らませた。
「まったく、いつもチップをやるのは誰だと思っているんだ」
「それとこれは別の話だよ。それより、早くメモをチェックしないとアグネスに怒られるんじゃないの?」
市場近くの小さな電器店の一人息子は、大人びた口調だ。
「わかったよ」
城戸は渋々メモを開いた。
〈ズミクロンの九枚玉をご所望のクライアント来店 至急、店に戻って〉
やはり本業ではなく、足を洗おうと考え続けている稼業への依頼だった。
「なんて書いてあるの?」
二〇ドル紙幣をポケットにしまい、メモを覗き込もうとするホイの目の前で、城戸は紙を素早く折り畳んだ。
「商売上の秘密だ」
「いまどきスマートフォンも使わないKIDのために、俺はいつも御用聞きみたいに走り回っているんだ。教えてくれてもいいじゃないか」
ホイが思い切り口を尖らせた。城戸は首を左右に振る。
「ホイはまだ子供だ。危険な目に遭わすわけにはいかない」
ホイは不満げな顔だが、危険と言ったのは嘘ではない。
「それにスマートフォンは性に合わない。すまんがしばらく連絡係を頼むよ」
城戸は勢いよく粥をすすり始めた。
「スマートフォンだけじゃないよ。化石みたいなフィルムカメラを使うのはなぜ?」
「このカメラは化石じゃない。ウチの店に置いてある品物は全てメンテナンスを施した現役のカメラだ。なんでもデジタルにすればいいってもんじゃない」
粥を平らげると、城戸は丼の横に小銭を置いた。プライベートでスマートフォンを使わない理由を、一〇歳の子供に説明してもわかるだろうか。仕事の上でデジタル機器の必要があれば、手立てはいくらでもある。
「いつも訊いてるけど、カメラ屋がKIDの本業なの?」
「そうだ。儲けは少ないが、大好きな仕事だ」
城戸はもう一度愛機を撫でて、席を立った。
温麵の屋台、精肉店、野菜専門の店先を眺めながらゆっくりと歩を進める。米を炊く匂い、点心を蒸す水蒸気がそこかしこに漂う。露店の店先、大きな声で話し込む九龍の人々の間を縫うように、城戸は自分の店へと足を向けた。
どんな新規顧客かはわからないが、〈ズミクロンの九枚玉〉という合言葉を知っている。アグネスのメガネにかなった相手だ。きっと断れない仕事に違いない。今度香港に帰ってくるのはいつになるのか。周囲の景色を慈しむように眺め、城戸は何枚もシャッターを切った。小径の角で、城戸は不意に歩みを止めた。誰かに見つめられているような気がした。だが、周囲に城戸を注視する人間はいなかった。
九龍地区を南北に貫く地元の大動脈、彌敦道(ネイザンロード)に沿って続く小径をゆっくりと南下した。観光客や地元民を満載した二階建てのバスが激しく往来して、百貨店、ブランドショップが連なるネイザンロードから、一歩裏手に入る。数多くの映画や小説の舞台となった、いかにも香港らしい風景が続いている。
道の両側に、建て増しに次ぐ建て増しで背を伸ばすマンションがびっしりと並び、それぞれの窓やベランダには無数の洗濯物がかかる。建て増しの連続でエレベーターの乗り継ぎは当たり前、中には迷宮のように階段が入り組んでいるビルも少なくない。
市場で買い物をした商売人や主婦らが行き交う道端で、城戸は足を止めた。改めて頭上を見る。無数の洗濯物も香港の名物だが、もう一つここでしか見られないのがビルのベランダや窓から縦横無尽に伸びる看板の群れだ。また誰かの視線を感じた。見回すが、人影はない。
海鮮料理、マッサージ、携帯電話、人材派遣……。ありとあらゆる業種、店の規模にかかわらずそれぞれの看板が強く自己主張する。夜になると、ネオン管が灯り、煌々と一帯を照らす。その瞬間、九龍の裏通りは文字通りの不夜城に姿を変える。