上海の商社マン・王作民と福岡空港に降り立った城戸護。かつては陸上自衛隊でレンジャーの称号を得た兵士だった。城戸は、王を監視する刑事の存在を察知。不審に思いながら護衛を続けると、秘書が王を射殺し、自死してしまう……。
第26回山本周五郎賞、第16回大藪春彦賞にノミネートされた『血の轍』をはじめ、数々の話題作で知られる相場英雄。最新作『キッド』は、超監視社会の闇を描き切る、警察ミステリーの金字塔だ。その冒頭を、特別にご紹介します。
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城戸はM6につけていた五〇ミリのズミクロンを二八ミリのエルマリートに交換し、ファインダーを覗いた。五〇ミリレンズの画角は人間の視界と同一だと言われるが、より広い範囲を捉えることができる二八ミリのレンズは、香港の雑多で猥雑な街角を丸ごと写し撮る。
歩道の縁で中腰になる。城戸はアングルを決め、シャッターを切った。ファインダーの中で長い竹竿を持った職人がビルの外装工事の足場組みを始めた。九龍では竹竿を組み合わせた足場を作り、高層階まで命綱なしで職人が登っていく。ゆっくりとフィルムを巻き上げ、竹竿と職人の顔が写るローアングルを探った。頭上から怒りの籠もった声が降ってくる。
「Hey, Kid. What are you doing?」
顔を上げた。両手を腰に当てて頬を膨らませた少女が立っていた。アグネスだ。
「やっぱり写真撮ってブラブラしていたのね」
浅黒い肌に大きな瞳のアグネスは、薄手のデニムジャケットと細身のレギンスに身を包んでいた。
「待ちきれないからって、クライアントは一旦帰っちゃったわよ」
アグネスは、パステルグリーンのGショックを人さし指で叩いた。城戸は自分の古いパネライの手巻き時計に目をやる。ホイがメッセージを運んできてから、たしかに一時間以上が経過していた。
「悪い、ついつい夢中になってしまった」
城戸の左腕をアグネスがつかむ。
「家賃の支払いが近いんだから、仕事してもらわないと困りますからね」
城戸を引っ張るようにして、アグネスは小径を足早に進んだ。
「大家に払うのはまだ半月あとじゃないか」
「そんなことばっかり言って、次々に古いカメラとレンズ仕入れるのは誰? 売れ残りばっかりためて、お店を潰す気なの?」
やっと腕を放してもらった城戸は、アグネスに先導されながら裏道を歩く。
「それで、どんなクライアントだった?」
アグネスはてきぱきと答える。
「上海から来た紳士だったわよ。イギリスっぽいスタンダードなストライプのスーツ、頑丈そうな革靴だった。時計はロレックスの古いタイプ、髪は七三分けよ」
最近、中国の深圳を拠点とする新興企業から仕事の依頼が増えていた。スマートフォン向けの電子部品やドローンのパーツ製造などで急成長した若手経営者たちだ。起業によって得た潤沢な金を他者に見せつけるように使うため、これが中国本土や香港、シンガポールの黒社会の目に留まってしまうのだ。ときに美人局に巻き込まれ、恐喝被害に遭遇する。
アグネスによれば、今日現れたという新規顧客はそうしたタイプではなさそうだ。あれこれ考えを巡らせるうち、城戸は香港でも有数の夜店が集うエリア、呉松街に着いた。アグネスが再び顔をしかめる。
「また何か仕入れたのね」
家主の海鮮料理店の裏口、一五階建てビルのテナント用郵便受けに運送業者UPSの不在連絡票が刺さっていた。
午後六時、城戸は九龍と香港島を結ぶスターフェリーのデッキから夜景を見つめた。香港島の沿岸部には、ガラス張りで刀のような中国銀行のビルのほか、地元財閥の高層建造物が密集する。丘の上から高層ビル群を見下ろすシーンと同様、水面にネオンが映るさまも香港を代表する光景だ。
それぞれのビルの一番目立つ場所には、中国本土のインターネット、物流、自動車会社のネオンが灯る。日本企業の広告はほとんどなく、ここ一〇年ほど急成長を遂げた韓国財閥の看板も減り始めている。
九龍から香港島へは地下鉄も通っているが、城戸はいつも横揺れの激しいスターフェリーに乗る。けばけばしいネオンを見るたび、中国本土の企業の力が増し、日本の影響力が著しく落ちたのを実感する。
〈クライアントの名前は王さん、中環の高級酒家で個室を取ってあるそうよ〉
呉松街にある城戸の中古カメラ専門店〈ギースフォト〉のカウンターでアグネスが言った。指定されたのは、香港島の金融街から少し坂を上ったエリアにある最高級広東料理の店だった。城戸を訪ねてくるクライアントに、これまでも何度か誘われた店だ。
〈王さん、アレックスさんから紹介されたみたいだし、あの酒家に個室を予約するような人だから、良い報酬をくれるわよ〉
大人びた口調でアグネスが伝えた。城戸に仕事を依頼するには誰かの紹介が必要だ。元上司のアレックスならば問題はない。あの最高級レストランの個室を確保するには、店とのコネも求められる。予約できたのなら、身元もある程度保証されている。だが、胸の中に小さな黒い点が生まれ、これが徐々に広がっていくような感覚がある。明確な根拠はないが、口の中に小さな砂粒が紛れ込んだときの感触に似ている。