上海の商社マン・王作民と福岡空港に降り立った城戸護。かつては陸上自衛隊でレンジャーの称号を得た兵士だった。城戸は、王を監視する刑事の存在を察知。不審に思いながら護衛を続けると、秘書が王を射殺し、自死してしまう……。
第26回山本周五郎賞、第16回大藪春彦賞にノミネートされた『血の轍』をはじめ、数々の話題作で知られる相場英雄。最新作『キッド』は、超監視社会の闇を描き切る、警察ミステリーの金字塔だ。その冒頭を、特別にご紹介します。
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「まもなく到着です」
濃紺のセーラー服を着た船員がマイクで案内をした直後、エンジンが低速のギアに切り替わって、轟音をあげる。古い型のフェリーが急減速し、つんのめるような形でターミナルに接岸した。
中環の緩く長い坂道の中腹には、ロールスロイスやメルセデスのマイバッハが何台も停まっていた。それぞれの傍らには蝶ネクタイをしたショーファーが控え、いつ何時主人が戻ってもドアを開けられるように待機している。
幅の狭い歩道脇に金色の外壁に覆われた要塞を思わせる建物があった。店はローストダックで有名で、入り口近くには、褐色に焼き色が付いた何羽もが吊るされている。エントランスに近づく。タキシードを着た顔見知りのドアボーイが恭しく扉を開けた。
「ミスターKID、お連れさまは三階でお待ちです」
店の中に招き入れられた城戸は、案内係について一階の客席を通り抜け、北側にあるエレベーターに向かう。外壁と同様、エレベーターも金色だ。香港の富裕層が大好きな色で、成功の象徴でもある。
点心が供される一階は観光客やカジュアルな地元民が席を埋めていたが、三階はだいぶ様子が違う。席に着いた人々の身なりは一目で高級だとわかる。ビジネスマン、企業のオーナー風、有閑マダムたちと客層はばらばらだが、一人当たり二〇〇〇ドル近くするディナーを日常的に摂っている人種だ。
婦人客の多くはパリやミラノの著名ブランドのロゴ入りバッグやドレスを纏っている。先ほどの豪奢な車の持ち主だろう。名物のローストダックを頬張り、ワタリガニや大きなエビと格闘している。フロアのあちこちには大きな生け簀が設置されていた。
案内係が歩みを止める。エレベーターと同じく、金色の扉が城戸の目の前にあった。
「お待ちしていました」
城戸が個室に入ると、ストライプスーツの男が立ち上がった。握手を交わす。
〈王作民〉
城戸に差し出された名刺には、上海のビジネス街の住所と工作機械部品を専門に扱う中堅商社の名前、専務の肩書が記してある。
「突然九龍のお店に押しかけてしまい、失礼しました」
王が綺麗なクイーンズイングリッシュで詫びた。とんでもないと応じたあと、城戸は勧められるまま席に着いた。王が対面に座る。
「名物のローストダックのほか、ピータン、あとはワタリガニなど適当にオーダーを済ませておきました。なにかお好みがあれば追加で頼みます」
「結構です」
城戸は王を観察した。アグネスが言った通り、ギラギラした新興の中国企業のオーナーや経営幹部とは違う毛色の人物だ。年齢は城戸よりもいくつか上で、五〇歳前後か。顔を見ると中国人だが、目を閉じて会話すればイギリス人に間違えるかもしれない。
「上海の大学を出たあと、イギリスの大学で経営学を学びました」
城戸の胸の内を見透かしたように王がイギリスの名門大学の名を告げた。
「アレックスとはどちらでお知り合いに?」
城戸は元上司の名を出した。
「アフリカの工場に部品を納入する際、現地でガイド兼ガード役をお願いしました」
政情が不安定な国を、王が挙げた。たしかに中国企業が積極的に進出していた土地だ。イギリスの特殊部隊SASで数々の紛争地に派遣された歴戦の猛者アレックスは、除隊後にアメリカの民間警備会社に就職し、中東やアフリカを飛び回っている。紹介と聞いて、何度か呉松街の店からアレックスの衛星電話に連絡してみたが、忙しいのか元上司は出なかった。
「今度も彼に依頼しようと思いましたが、アジアならば適任者がいると言って、アレックスはあなたに接触するよう教えてくれたのです」
中東やアフリカでは、イスラム原理主義勢力によるゲリラ活動やテロ事案が頻発している。ゲリラ対策に強いアレックスは多忙すぎるのだろう。
「それで、私へのご依頼とは?」
城戸が切り出した。王が頷く。