上海の商社マン・王作民と福岡空港に降り立った城戸護。かつては陸上自衛隊でレンジャーの称号を得た兵士だった。城戸は、王を監視する刑事の存在を察知。不審に思いながら護衛を続けると、秘書が王を射殺し、自死してしまう……。
第26回山本周五郎賞、第16回大藪春彦賞にノミネートされた『血の轍』をはじめ、数々の話題作で知られる相場英雄。最新作『キッド』は、超監視社会の闇を描き切る、警察ミステリーの金字塔だ。その冒頭を、特別にご紹介します。
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「二週間後に日本へ三日間ほど行きます。福岡で開催される精密工作機械の見本市に立ち寄る予定にしています」
少し拍子抜けした。アレックスが依頼を受けるのはトラブルが起きやすいエリアだ。護衛がなければ、昼間でも拉致される可能性がある。代役と聞いて、イスラムのゲリラが政府軍と激しい戦闘を繰り返すフィリピンのミンダナオ島周辺にでも赴くのではと考えていた。
「日本ならば、私のような元兵士が行く必要はありません。世界で一番安全ですよ」
肩をすくめて城戸は微笑んだ。ウエーターがシャンパングラスと前菜を載せたワゴンを個室に運び入れてきた。
「それがですね、ちょっとした事情があるのです」
細身のグラスにシャンパンを注ぐウエーターを気にしながら、王が首を振った。事情とはなにか。
「まずは乾杯しましょう」
城戸はグラスを掲げた。他者がいる前で込み入った話はできない。王もグラスをあげ、杯を合わせた。ウエーターはピータンやクラゲの酢の物など定番の前菜を取り分け、恭しく頭を下げて部屋を出ていった。
「申し訳ありません」
ドアの方向を一瞥したあと、王が言った。一口シャンパンを飲んで、話し始める。
「実は、私ではなく弊社のトップが問題なのです」
王の会社の社長は上海と周辺地域の黒社会の浄化撲滅運動に協力したことで、その筋の人間に恨みを買っているのだという。
「上海では公安の目が光っておりまして、弊社トップも私も安全ですが、これが海外だとどうなるか。過去に他社の人間が脅されたり、乱暴を受けたりしたことがあると聞いたものですから」
「それでしたらお力になれそうです」
王が立ち上がり右手を伸ばした。城戸は握り返した。王が満面の笑みを浮かべる。
「報酬はどういたしましょうか?」
「前金で一五万香港ドル、福岡訪問のあとで同額を香港広東銀行の指定口座にお願いします。香港から出発しますか?」
「ええ。城戸さんの分も往復ファーストクラスを用意します。万が一を考え、福岡駐日領事館に連絡を入れておきます」
中国の黒社会は日本にも拠点を築きつつある。福岡といえど、安全ではない。
王が両手を叩き、ウエーターを呼んだ。王は料理に合わせるワインをオーダーした。別のウエーターが名物のローストダックを配膳した。王に勧められるまま、城戸はダックを口に入れた。飴色に焼いた肉の表面はぱりぱりと香ばしい風味がある一方、骨の周りにある部位はたっぷりと肉汁を含んでいる。特製の柑橘系ソースとの相性も相変わらず抜群だった。
「それにしても、アレックスさんの元部下が香港にいらっしゃるとは」
「あの稼業からは足を洗いました」
王がさらに身を乗り出す。
「今までどちらに行かれました?」
「アレックスの部下として、リビアやシリア、それに西アフリカなど一〇カ国程度でしょうか」
中東やアフリカの他にも、政情が不安定な旧ソ連構成国、中南米の独裁国家などに赴いた。
「アレックスさんとお仕事をしたとき、銃を使うような場面はありましたか?」
「ときには」
新たに運び込まれたワタリガニの殻をハンマーで砕きながら、城戸は答えた。
「銃撃戦も?」
王が興味深そうに訊いてきた。
「なんどかそういう目に遭ったことはあります」
「人を撃つというのは、どんな気分がするものですか?」
城戸は首を振る。
「私が遭遇したのはちょっとした小競り合いです」
王が肩をすくめた。無作法だと思ったのだろう。小競り合いでも、人は簡単に死ぬ。気分は良くない。
「お店のアグネスさん、綺麗なお嬢さんですね。娘さんですか?」
王が話題を変えた。城戸はまた首を振り、否定する。
「彼女は今一七歳ですが、五年前に重慶大厦で保護しました。ラオスの難民です。あのマンションで親族に捨てられていました」
王が絶句した。近代的なビルが増え始めている九龍だが、重慶大厦は猥雑で怪しげな雰囲気を色濃く残している。世界中から集まった商人や旅人が迷路のようなフロアで店を出し、木賃宿で暮らす。
保護した当初、アグネスは読み書きもできなかった。城戸が里親となって学校に通わせると、あっという間に英語と広東語を使いこなすようになった。今では店の経理まで引き受ける頼もしい存在に成長した。
「フィルムカメラのお店はなぜ?」
「ワインコレクターと同じです。希少なボディーやレンズは文化財であり、大切に保護する必要があります。私が納得した人にしか売りません。ズミクロンの九枚玉はあり得ない型ですけどね」
城戸はクライアントに笑みを送り、白ワインを飲み干した。