忘れられない恋を誰かに語りたくなることがありませんか? その相手にバー店主は時々選ばれるようです。バー店主がカウンターで語られた恋を書き留めた小説『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』より、今週のお話。
* * *
最近の東京の八月はまるで熱帯地方のスコールのような雨が降る。その日も、昼の間は灼熱の太陽が渋谷の街に照りつけていたのに、五時頃になると黒い雲がたちこめ、大粒の雨が降り出した。しかし三十分後には完全に雨は上がり、南の島の夕方のビーチのような爽やかな風が渋谷の街を通り過ぎた。
日が落ち、さっきまでオフィスで働いていた人たちがビルの外に出て「え、雨、降ってたんだ」と驚きの声をあげている。
夜空には一片の雲もなく、こちらを眺める三日月に手が触れられそうだ。
私は『ライク・サムワン・イン・ラブ』を今夜は聞こうと思った。
「最近、ふと気づくと星を眺めてたりする。ギターが聞こえてきたり。まるで恋している人みたいに。時々、自分がすることにびっくりしてしまう。そんな時はいつもあなたが近くにいる」という内容の歌詞で、恋が始まった時のあの妙にふわふわした心をうまくとらえた曲だ。
私はレコード棚の前でしばらく考え、リタ・ライスのアルバムを取り出した。
リタ・ライスはオランダの女性ジャズ・ボーカリストで、「ヨーロッパから見た憧れのアメリカのジャズを歌う」という姿勢をくずさない。
私たちアジア人も同じような憧れの視線でアメリカを見てしまうからなのだろうか、私はリタ・ライスのアメリカのジャズとの距離のとりかたが大好きだ。
そんなリタ・ライスのアルバムに針を落とすと、バーの扉が開き落ち着いた大人の雰囲気の女性が入ってきた。
年齢は四十歳前後くらいだろうか、カミンスキーのハットをかぶり、白いTシャツとデニムのロングスカートに、ミュールとかごバッグをあわせている。少しだけ彼女から香水が香り、成熟した女性の魅力を感じた。
私が「いらっしゃいませ」と言うと、ハットをとり、少し微笑んで、「ここいいですか」と、カウンターの真ん中に座った。髪の毛は肩まであり、左手でその髪をかきあげた。
彼女はボトルが並んだ棚の方を眺め、何か思案しているようだ。
私が「何かお飲み物に悩まれていますか? バーテンダーはお酒のプロですから何でも相談してください」と言うと彼女はこう答えた。
「ウイスキーが気になるんですが、ちょっと教えてください。マスター、シングル・モルトってどういうものですか?」
「どうしてシングル・モルトのことが知りたいんですか?」
「この間、男性とバーに行ったんですけど、彼がバーテンダーさんとスモーキー・フレイバーとかシェリー樽とかシングル・モルトとかの話をしてたんです。それが何か気になって」
「なるほど。バー好きな男性特有のうんちくですね。でも、一度知ってしまうと結構面白いものなんです。
まずモルトは麦芽のことです。大麦を水にひたして芽が出ますよね。その後、その麦芽をスコットランド特有のピートと呼ばれる炭を燃やして乾燥させるんですね。そのピートという炭に独特の香りがありまして、麦芽に『スモーキー・フレイバー』が付くというわけです。これがスコッチ・ウイスキー特有の香り、ピート香になります」
「麦芽にスモーキー・フレイバーが付くんですね」
「この麦芽を発酵させて、お酒にします。さらにこのお酒を煮詰めて飛んだアルコールを集めたのが麦芽が原料の蒸留酒です。でもこのままではこの蒸留酒は無色透明ですよね。最初はこれを飲んでいたそうです」
「ウオッカも焼酎も蒸留酒は無色透明ですよね。でもウイスキーは樽で熟成させて茶色くしてるんですよね」
「正解です。一七一三年に政府が麦芽に対して税金を課すことにしました。
その税金から逃れるためにスコットランドの蒸留所が山にこもり、シェリーの空樽に隠して買い手が現れるまで貯蔵したのです。樽で貯蔵することにより無色透明だった蒸留酒が琥珀色になり、シェリー香や樽の香りも付くという偶然の効果が見られたというわけです」
「樽の香りってそういうことなんですか。面白いですね」
「このモルトから出来たウイスキーをモルト・ウイスキーと呼ぶのですが、普通スコッチ・ウイスキーは複数のモルト・ウイスキーとグレン・ウイスキーという小麦やトウモロコシといった穀物のウイスキーを混ぜて瓶詰めします。その混ぜる前のひとつの蒸留所だけで作られたウイスキーを瓶詰めしたものをシングル・モルト・ウイスキーと呼ぶわけです」
「シングル・モルト・ウイスキー、他と混ぜない麦芽のウイスキーというわけですね」
「シングル・モルト・ウイスキーにはマッカランやボウモアといったバーで定番の有名な銘柄がたくさんあります。どの銘柄も個性的で自分の好みの味に出会うと本当に楽しくなってきますよ」
「それじゃあそのボウモアというのをいただけますか。どうやって飲むのがよいのでしょうか?」
「一番香りが楽しめるのはウイスキーと水を一対一で割るトワイス・アップという飲み方です。強すぎないし香りの違いがわかるからおすすめですよ」
「ではそれでお願いします」
私はボウモアの十二年を、香りがわかりやすい口の広いグラスに注ぎ、同量の常温のミネラルウオーターを足して、彼女の前に出した。
「ああ、不思議な香りですね」
「その香りに一度はまると、癖になってしまうものなんです」
「そうなんですか。ふーん」
「どうされましたか?」
「マスター、私、恋をしてるんです」
「大変失礼ですが、左手の薬指にされているのは結婚指輪ではないのでしょうか」
「結婚指輪です。旦那ともちゃんとうまくいってますよ。そんなことわかったうえで、最近、すごく恋をしてるんです」
「恋ですか……、お客様のような方はどういう風に恋が始まるんですか?」
「最初は仕事の関係でメールをしてたんですけど、たまに私が『あの映画、観ましたか? すごくいいですよ』って感じのことを書いたら、彼も自分のことを書き始めて、いつの間にか仕事のことは関係なく、メールを往復するようになったんです」
「なるほど。普通は仕事の事務的な用件だけで、ちょっと天気のことや共通の知人のことなんかを書いて、それで終わりですよね。そんな風に始まるんですね」
「そうなんです。
『あ、メール来てる』って気がつきますよね。
開けるのにドキドキするじゃないですか。
読み始めると、事務的なことが書いてあるんだけど、何か私だけを意識したこと書いてないかなあって何度も読み返したりしますよね。この言葉ってどういう意味なんだろう、もしかして誘っているのかなとか考えますよね。ちょっとした絵文字でさえもどういう気持ちなんだろうって勘ぐります。
そういうことを感じ始めると『ああ、やっぱりこの私の今の気持ちはすごく恋が始まっているんだ』って確認するんです。
私、その『あ、恋が始まった』って瞬間がすごく好きなんです。この感覚って結婚したり年齢を重ねたりしたら、もうなくなるものだと昔は思ってたんですね。
でも、こんな風にやっぱり『恋』って始まるんだあって思うと、人間ってすごいなあって思うんです。
マスター、子供を作るのが目的じゃないのに異性にひかれるのって人間だけなんです。こういう特別な感覚があって、その恋を感じるとこんなに特別な気持ちになれるのに、『もう恋なんてしない』ってもったいないです。
私、こんな風に自分の心の中に恋が始まってくる瞬間がすごく好きで、『恋って贅沢品だなあ』って思うんです。たぶん、高いコートやすごくおいしいレストランなんかよりずっとずっと贅沢なんです。
この感覚を忘れてしまったり、もう自分とは関係ないことだなんて思っているのってもったいないなあって思うんです」
「なるほど。それで今はその恋の相手とはどんな感じなんですか?」
「最近、たまに電話しているんです」
「電話ですか。それだけなんですよね」
「ええ。電話、楽しいですよ。彼の声が耳元で聞こえるとドキドキするんです。私の声も彼の耳にそんな風に届いてるかなあって想像してみるんです。今、もしかして切りたがってるのかなあ、話を終わらせようとしているのかな、あ、でも新しい話題が出てきたから切りたくないんだなとかすごくドキドキしますよ」
「お客様の気持ちは伝わっているんですか?」
「マスター、そんなに急がなくていいんです。恋は贅沢品って言いましたよね。ゆっくりゆっくりと味わうのがいいんです」
「むこうはお客様のことをどう思ってるんですか?」
「うーん、どうなんでしょう。たぶん同じくらいの気持ちなんじゃないですかねえ。もしかして私の片思いかもしれないし。でもどっちでもいいんです。そんなに急ぐ必要はないですから」
彼女はそう言うと、ボウモアのトワイス・アップに軽く唇をつけて、「ほんと、こういう味、ちょっと癖になりそうですね」と言った。
後ろではリタ・ライスが「まるで恋みたい」と歌い続けていた。
* * *
続きは、『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』をご覧ください。
恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる
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