2019年に発売された傑作ノンフィクション『森瑤子の帽子』が文庫になりました。80年代、都会的でスタイリッシュな小説と、家族をテーマにした赤裸々なエッセイで女性たちの憧れと圧倒的な共感を集めた森瑤子。母娘関係の難しさ、働く女が直面する家事育児の問題、夫との確執、そしてセックスの悩みといった今に通じる「女のテーマ」を日本で誰よりも早く、そして生涯書き続けた作家です。
書き手は島﨑今日子さん。「AERA」の「現代の肖像」や著書『安井かずみがいた時代』などで名インタビュアーとして知られる著者が、80年代と森瑤子に迫った渾身の1冊です(文庫版には酒井順子さんによる解説も収録)。一部抜粋してお届けです。
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フェミニズムが台頭してきた、70年代の女性誌
専業主婦時代の森の夢は、童話作家になることだった。佐野がはじめての絵本『やぎさんのひっこし』を出すのは、七一年、三十三歳の時である。森が、伊藤雅代から森瑤子になるまでまだ七年待たねばならず、佐野はその間に、永遠のベストセラー『100万回生きたねこ』を世に出していた。
森瑤子と佐野洋子。生き方の方向性も佇まいもまるで違う二人のヨーコであるが、同世代という以外にも共通点は多い。幼少期を中国で過ごしており、共に静岡で育ち、音楽と美術という違いはあれ、父によって将来へのレールを敷かれて、芸術系の大学を卒業した。森は小説やエッセイで繰り返し母との確執を書いたが、佐野も『シズコさん』を書いて母との葛藤を文字にしている。
二人のヨーコは、「父の娘」として、職業を持って生きることを自明のこととして育てられていた。それは、戦前にはなかった女性の生き方であり、共に「新しい女」であった。
ここは、佐野に証言者として森を語ってもらいたいところだが、既に佐野もこの世にはいない。長い前置きになったが、代わって、二人を知る編集者の小形桜子に登場してもらおう。森の担当編集者でもあり、佐野の一連のエッセイに、「サクラさん」として登場する人物である。
四四年、東京に生まれた小形は、六七年、小学館の女性週刊誌を出発点として雑誌の世界に入り、七一年、集英社の女性誌「non-no」編集部に創刊から参加。仕事で『100万回生きたねこ』を出す前の佐野と出会い、友情を結ぶことになる。
消費文化が花開く七〇年代は、並行してウーマンリブ、フェミニズムが台頭した時代でもある。出版界では「新しい女性の生き方」を問う雑誌が次々創刊されていた。「あごら」「女・エロス」「わたしは女」「フェミニスト」といったミニコミ系に続いて、大手出版社のマガジンハウスからはニューファミリーのための雑誌「クロワッサン」が、集英社からは「女の自立」をキーワードにした「MORE」が、七七年に創刊された。
三十三歳だった小形はフリーの立場ながら、「MORE」の創刊チームで雑誌のコンセプト作りをリードした。
「まだフェミニズムという言葉よりウーマンリブという言葉が使われていましたが、日本でもそういう動きがだんだん活発になってきていました。モア編集部はファッション班とヒューマン班に分かれていて、私はヒューマン班だったので、創刊のポイントにしようと思ったのが、エリカ・ジョングの『飛ぶのが怖い』でした。読んだ時、とても面白くて、そこには女性が抱える問題が集約されていました。アメリカでは七六年にフェミニストのシェア・ハイトが女性の性意識を調査した『ハイト・リポート』が出ていて、モア創刊後に日本でも翻訳出版されています。世界で女たちが自分の性を語り始めた時期で、私には、その頃から女性の性を自分のテーマにしていきたいという思いがありました。日本ではまだ性のことを単刀直入に話せる女性ってそんなにいなかった時代だからこそ、『MORE』の創刊誌面で大きく取り上げたかった。それが後のモア・リポートにつながっていきます」
「MORE」の発行部数が膨れ上がった背景とは
七六年に日本でも翻訳出版されたエリカ・ジョングの自伝的小説『飛ぶのが怖い』は、精神と性の解放を求める中産階級の女性の物語で、全米で六百万部を超えるベストセラーになった。小形は、この作品を、オノ・ヨーコを表紙にした「フェミニスト」を立ち上げた米文学者の渥美育子に語らせるなど、十四ページの特集「今日の愛と性を問い直す『飛ぶのが怖い』あなたへ」を組み、フランソワーズ・サガンのインタビューと合わせて、創刊号の目玉とした。特集では、ファック、ペニス、エクスタシーなど、これまでの女性誌では使われることがなかった言葉が並んだ。創刊二号目には、エリカ・ジョングのインタビューが掲載される。「MORE」の発行部数は膨れ上がっていった。
森は、この頃、ミセス・ブラッキンと呼ばれていて、焦燥と苦悩の最中にいた。「いい年をした大人の女が、ただひたすら夫の収入と彼の人間性と寛容さに依存するということの意味。タンポンでさえ、夫からお金をもらって買う恥ずかしさ」に苦しみ、自らを寄生虫のように感じていた。十代からサガンを愛読していた彼女が、サガンのインタビューが載った、女の自立を謳う雑誌を手にしたのはごく自然のなりゆきだろう。
「MORE」の創刊号が発売されたのが五月で、七月に池田満寿夫の『エーゲ海に捧ぐ』が芥川賞を受賞したニュースを聞いた森は、軽井沢の別荘で生まれてはじめての小説を書き出したのである。仏文学者の清水徹との対談で彼女は「MORE」に刺激された、と語っている。
──『情事』ではセックスを意識的に書きましたね。ちょうどその時期、「モア」という雑誌で、女の人の性について非常に率直に語り始めた時期と重なっていましたので、本当のことをいってもいいんじゃないかという気持ちで、あえてセックスシーンを書きましたけれども、その後ほとんど本気では書いてないの。(『森瑤子自選集』月報(1)/九三年五月)
広告業界にいて、CFを作っていた森の頭の中にはマーケティングという考え方が定着していた。辻仁成との対談で、司会者に「読者を意識したのはいつからか」と問われて、こう答えている。
──最初の『情事』から。そのころ『モア』が創刊したころだったの。初めてセックスを後ろぐらくなくカラッとした感じで特集したんです。それがすごく画期的だった。私は『モア』の読者に向けて、要するにああいうものをカラッと読める人たちに向けて書こうというふうにターゲットを決めていました。(「すばる臨時増刊号」集英社/九〇年十二月号)
森ははじめての作品にあの強烈な一言を使う。
──かつて私自身も三十代の前半を、性的であると同じに精神的な飢餓の状態で過ごしたことがあった。そのことを『情事』という最初の小説の中に書いた。エリカ・ジョングというアメリカ人の女性の言葉に、「セックスをやってやって、やりまくりたい。反吐がでるまでやってみたい」というのがあり、それを活字で読んだ時の強烈なショックが忘れられず、その言葉を私の小説の中に借用したいくらいだった。(『恋の放浪者』大和出版刊/八八年)
森瑤子の帽子
よき妻、よき母、よき主婦像に縛られながらもスノッブな女として生きた作家・森瑤子。彼女は果たして何のために書き続けたのか。
『安井かずみがいた時代』の著者が、五木寛之、大宅映子、北方謙三、近藤正臣、山田詠美ほか数多の証言から、成功を手にした女の煌めきと孤独、そして彼女が駆け抜けた日本のバブル時代を照射する渾身のノンフィクション。