忘れられない恋を誰かに語りたくなることがありませんか? その相手にバー店主は時々選ばれるようです。バー店主がカウンターで語られた恋を書き留めた小説『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』より、今週のお話。
* * *
『ジャスト・フレンズ』という失恋を歌った有名なジャズ・スタンダードがある。今はもう「ただの友達」で、「二度と以前のような恋人同士には戻れない、キスなんてない……」という切ない歌だ。
おそらく全世界の失恋した人たちがこの曲をバーやクラブでリクエストしてきたのだろう。たくさんのジャズ・シンガーがこの曲を歌っているが、私のバーではプリシラ・パリスというお人形のような綺麗な顔をした白人女性歌手が歌う『ジャスト・フレンズ』をいつもかけている。
彼女がこの曲を歌うとどうも男性は勘違いしてしまうような気がする。もしかしてもう一度、彼女に「好きだ。やり直そう」と言えば戻ってきてくれるんじゃないかと。プリシラの歌声はそんな男性を優しく許してくれそうでとても危ない。
秋が深まり始めた十月。その夜は九時を過ぎてもお客様がまったくこない日で、私はこのプリシラ・パリスの切なくて甘いアルバムを何回もかけていた。秋の切なさとプリシラの甘い声はよくあう。
そこに「マスター、寒くなりましたね」と言いながら、斉藤さんという常連の男性が来店した。斉藤さんは三十代前半、近くのIT系の会社に勤めている。いつも黒っぽいスーツに赤系の色のネクタイを締め、坊主頭で背は高く、声が大きい。いわゆる憎めないタイプだ。斉藤さんはいつも通り、入ってすぐのカウンターの一番端に陣取り、「今日のビールは何ですか?」と聞いた。
十月はメキシコ産のネグラ・モデロを出している。
十九世紀半ばに、炒って赤くした麦芽を使った「ヴィエナ」という赤茶色のビールがオーストリアにあったが、第一次世界大戦でオーストリア=ハンガリー帝国が敗れた後、この「ヴィエナ」は衰退していった。
しかし、オーストリア・ハプスブルク家が統治していたメキシコではこの「ヴィエナ」というビールが長く受け継がれた。
私は斉藤さんの前にこのネグラ・モデロを置き、「ハプスブルク家の忘れ形見のようなビールです。実はメキシコ料理のスパイスにすごくあう情熱的なビールなんです」と説明した。
斉藤さんはそのビールの香りをとり、グラスを傾けゴクリと音をたてて流し込んだ。
「こくがあってしっかりしてておいしいですね。今日はもうビールをたっぷり流し込んで酔っぱらおうって決めたのに、このビールだと上品に酔えそうです」
「突然、足にきたりするから気をつけてくださいね。でもどうして今日は酔っぱらいたいんですか?」
「マスターにそれを話しにきたんですよ。まあバカな男の話を聞いてください」
「聞きましょう」
「俺、二十代はじめの会社に入ったばかりの頃、同期の女の子とすごい恋愛をしたんです。もう人生初めての本物の恋で、彼女のことすごく好きだったし、彼女も俺のことをすごく好きだったはずなんです。
彼女、実家住まいだったんですけど、俺の一人暮らしの部屋に通ってきてほとんど同棲みたいな感じでした。休日なんてずっと二人で抱き合ってベタベタしてたし、もうそういう若い頃ってセックスばっかりしてるじゃないですか。お互いの今までのことや未来の夢なんかも全部、一切合切話し合いました。
本当に飽きずにずっと一緒で、また、たくさん喧嘩もしたんです。
仲が良くて気が合うとお互いすごく気を遣わなくなって、言いたいことを言うから喧嘩が増えるんですよね。相手が気にしているようなこともわざと傷つけたくなって言ってしまうし、もう後先考えずに感情をそのままぶつけちゃうんです。親とか兄弟とかもそうじゃないですか。仲が良ければ良いほど、なんか距離が近すぎて喧嘩になっちゃうんです。
彼女とは何度も別れました。『もう無理。一緒にはいたくない』って言って、連絡をとらなくなるんですけど、しばらくするとお互い寂しくなって連絡をとっちゃうんです。
会社に入ってすぐに付き合い始めたから二十三から二十八までずっとそんな感じでくっついたり別れたりしてたんです。五年間ずっと一番近くてやっぱり一番好きな女性でした。
今思えばどこかの段階で結婚すれば良かったんです。でも結婚を考えるような年齢じゃなかったんですよね。
目の前の『大好き』とか『もう別れたい』とかそういうのばっかりでいっぱいになってて、彼女が実は俺にすごくぴったりの女性だなんて気がつかなかったんです。
最後、二十八の時に今までで一番大きい喧嘩をして別れました」
「喧嘩の原因は何だったんですか?」
「ああ、覚えてないんですよねえ。なんかお互いの親のことがきっかけだったような気はするんですけど。彼女がすごく泣きながら『もう本当に終わりだと思う』って言ったのだけは覚えていて。
しばらくしたら彼女、親のすすめでお見合いして、あっさり結婚しちゃったんです。
俺のところにも『今度結婚するから』って連絡がありました。俺も『おめでとう。俺も結婚式出ていい?』とか言って結婚式にまで参列してしまったんです。
ほんとバカなんですけど結婚式の途中で、『ひとことあります!』って手をあげたんです。俺と彼女のこと知っている奴らは『バカ! 何するつもりだ!』って怒った顔してて。俺、前まで走っていって、司会からマイクを奪って『友達代表でひとことだけ言わせてください。おめでとうございます。瞳さんを幸せにしてください。それだけです』って言っちゃったんです。
結婚相手の男性だけが俺がどういう人間だか知らなくて、その会場では彼女の両親も含め、みんなもちろんわかってて。その相手の男性、ちょっと目をうるうるさせて『任せてください。幸せにします』って答えたんです。たぶん俺を幼なじみかなんかだと思ったんでしょうね。たぶんそいつ良い奴なんです。『ああ違うところで会ってたらこの男と仲良くなれたかも』なんて思いました。その男の真面目そうな目を見て、俺、放心状態になって自分の席に戻りました。それからすごく酒を飲んだので全然覚えていません」
「その後は普通に恋愛はしたんですか?」
「はい。俺もそれからは何度か普通に女の子を好きになって、ちゃんと告白したりデートしたり、ちょっと付き合ってみたり、失恋したり、そんなのを何度か繰り返しましたが、二十代のあの頃のようなすごく熱くて激しい気持ちになんて全然なれないんです。
魅力的な女性もいたし、一緒にベッドの中にいると充実した気持ちになることもあったんですけど、でも『この女性と結婚して死ぬまでずっと一緒にいたいか』って思うとそうでもない気がして」
「そうですか。その昔の彼女とは連絡はとってるんですか?」
「とってます。旦那が出張なんて時、二人で飲みに行ったりもしてます。どんな女性よりも話があうし、一緒に飲んでいて楽しいから誘っちゃうんです」
「それはマズいですね」
「別に不倫になんてならないですよ。この間、俺ちょうど女の子と別れたばかりで、つい酔った勢いで彼女に言っちゃったんです。
『俺、どうしておまえに結婚しようって言わなかったんだろう。俺、瞳と結婚するべきだったんだよなあ』
彼女こう答えたんです。
『いつかそういうつまんないことを言うんじゃないかと思ってた。あのね、私、今の旦那と結婚してすごく幸せなんだよね。斉藤くん、私が旦那のことをそんなに好きじゃないと思っているでしょ。無理して結婚したんだと勘違いしているでしょ。私がまだ斉藤くんにちょっと未練があると思ってるでしょ。男ってそういうものなんだよねえ。斉藤くん、私はもう全然斉藤くんのことを男として見てないって気づかないと次に行けないよ。私がすごくいい女だっていうことはわかってるけど、早く忘れなきゃ』
俺もうすごく腹が立って、また昔みたいに怒って帰って来ちゃったんです。でもたぶん彼女が言うことはあたってるんです。俺だけがひきずっているんです。彼女はもう一生振り向いてくれないところに行ってしまったんです。俺やっぱり彼女と結婚すればよかったんです」
そう言うと、斉藤さんはネグラ・モデロを一気に流し込んだ。
バーではプリシラ・パリスが「もう私たちは友達なの」と甘く歌っていた。
* * *
続きは、『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』をご覧ください。
恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる
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