辛いことや苦しいことがあっても私たちは生き続ける。人生に目的はあるのか。あるとしたらそれは何か――。20年の時を経て名著『人生の目的』が新書版に再編集され復刊。いまの時代に再び響く予言的メッセージ。
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胸につきささる事件のこと
悲惨(ひさん)な事件といえば、これほど悲惨な事件はない。中村元(はじめ)さんの著書『自己の探究』(青土社・一九八八年刊)のなかで紹介されている、ある心中事件のことである。
一九七七年の事件だから、いま(刊行時一九九九年)から二十数年前のことになる。その年の四月十三日の新聞に記事が出たそうだが、私の記憶にはない。たぶん何かの理由で見落としてしまったのだろう。
中村さんはその記事の内容を、こんなふうに要約されておられる。《運命の共感から愛情へ》という章の一部であるが、その箇所(かしょ)だけを抜きだして引用させていただく。
〈(前略)東京都板橋区高島平(たかしまだいら)の団地の高層建物から、合板会社の工員、山中了(さとる)さんと、長男の小学校四年生、敏弘君(九つ)、次男の同一年生、正人君(六つ)が、飛び降り自殺をした。父親は二人の子を抱きかかえるようにして死んだ。父親は妻に蒸発され、まじめに働いていたが、子どもの世話で「疲れた」といっていたという。父親のズボンのポケットには一〇円銅貨が一枚残っていただけであったということが、背後の事情をものがたっていた。こどもの手帳には、
「おかあさん、ぼくたちが天国からおかあさんのことをうらむ。おかあさんもじ国(地獄)へ行け、敏弘、正人」
と書いてあったという。(後略)〉
いまさら書くまでもないことだが、中村元(はじめ)さんはインド哲学の世界的な権威者(けんいしゃ)でいらした。仏教思想研究の大家でもあり、人間の生と死に関する考察も多い。私にとっては雲の上の人だった。その大学者の中村さんが、この世俗的な事件の記事に触(ふ)れて、
「胸をしめつけられた」
と率直(そっちょく)に述べておられることに、私はわけもなく感動した。また、こうも書かれている。
〈生活に困窮して自殺した人々の例は、幾(いく)らでもある。しかし、この頑是(がんぜ)無いこどもたちは、自分たちには何の罪もないのに、自分が死なねばならぬ、ということを意識している。──他の同年齢のこどもたちが幸福に暮しているのを知りながら。
さらに最も大きなファクターは、このこどもたちが母親を怨(うら)み、呪(のろ)っていることである。自分にとって最も愛情をもってくれる最後の人であるはずの「母」を怨んでいる。このこどもたちは心情的に絶望の底に陥(おちい)っている。この世に生を受けた人たちのうちで、最も悲惨な人と言わずして、何と言えようか。(後略)〉
「おかあさん、ぼくたちが天国からおかあさんのことをうらむ。おかあさんもじ国へ行け、敏弘、正人」
という子供の手帳に残された短い文章を読んで、私は言うべき言葉もなかった。
ただ、ため息をつくしかない。〈地獄〉と書くはずのところを、〈じ国〉と書いている部分に、なんともいえないリアルな感じがあり、「おまえもじ国へ行け」と、自分の胸に指を突きつけられるような気がした。
この事件から二十数年がたつ。そして最近(さいきん)、私たちはふたたび〈母と子〉の問題を考えさせられる深刻な事件を知らされた。二十数年前の事件では、母親が子供二人を捨てて蒸発したというのが、その背景としてあった。しかし今回は、さらに悲惨である。実の母が愛人である男と組んで、保険金めあてに高校生の息子(むすこ)を殺した疑いで逮捕された、と新聞は報じていた。事実はまだわからない。裁判をつうじて真相が明らかになるのは、これからだろう。しかし、親が子供を捨てて蒸発する時代から、親が子供を殺す時代になってきたらしいことはたしかである。
人生の目的
人生に目的はあるのか。あるとしたらそれは何か――。お金も家族も健康も、支えにもなるが苦悩にもなる。人生はそもそもままならぬもの。ならば私たちは何のために生きるのか。
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