年齢、仕事、結婚――。20~40歳にかけて、女性は様々な問題に直面します。思わぬことで気持ちが傷ついたり、誰かの一言で自信をなくしたり、自分自身が揺らぐ経験は誰しも起こりえるのではないでしょうか。
山内マリコさんの新刊『あたしたちよくやってる』では、もがきながらも果敢に生きる女性たちを肯定し励ましてくれる小説とエッセイが33編収録されています。その中から、今回は特別に「How old are you?(あなたいくつ?)」を公開します。
How old are you?(あなたいくつ?)
「あたしって本当はパンクな女の子だったんだよ」
ついにキレて、彼にそう訴えた。
日曜の夜八時。
ショッピングモールの駐車場で、いまから車に乗り込んで帰ろうってときだった。
つき合って二年の彼氏がきょとんとしている。ただきょとんとしているだけなのに、その顔にはいつものように、あたしへの非難がしっかりと滲んでいるように見えた。
もしかしたら、これはあたしの性格が卑屈にねじまがっているせいかもしれない。なんの意味もない表情から、「お前はバカで才能もない冴えない女だ」っていうダークなメッセージを勝手に嗅ぎとってしまっているだけなのかもしれない。
それか、彼が日曜なのにスーツなんか着ているせいかもしれない。バカみたいなスーツ―─国道沿いの量販店で、“二着目からは半額”なんていうキャンペーンにまんまと乗せられて買った安物の―─ダークグレーのスーツ。せめてもうちょっとカジュアルな、休日らしい格好で来てくれればよかったのに。Tシャツとか、ポロシャツとか、スニーカーを履くとか。そしたらあたしの着ているものが、それほどみすぼらしく見えたりはしなかったのに。
「別になんでもいいよ。ジーパンでいいじゃん。なんだよ。なにが嫌なんだよ」
そう言われてあたしは言葉に詰まりながら、ああ、つき合って二年で、あたしたちの関係はこんなことになってしまったのか、と愕然としていた。まだ一緒に旅行にも行ったことないのに、彼は古女房に向けるようなうんざりした顔をしている。こんな気まずい空気になったのは、全部お前のせいだと言わんばかりの顔。つき合う前とはまるで別人の態度。
別人といえばあたしもそうだ。
スキニーデニムにエナメルパンプス、ブルーのストライプシャツの襟を立てて袖口をまくって、セミロングの髪をゆるく巻いたあたし。OLの二人に一人が持ってそうなコーチのショルダーバッグを斜め掛けしたあたし。コンサバティブの権化みたいなあたし。
これは誰だ?
この無難な女は何者だ?
「あなたといると、あたしの中のパンクな女の子が悲鳴を上げるのよ」
あたしは、溢れ出る感情ではち切れそうになる。涙が出そうなのをこらえながら、声を絞り出して訴えかけた。すると彼はますます困惑した顔で、「ハァ?」と言う。今度は明らかに人をバカにした顔だった。
―─意味不明なんですけど。
―─そしてその意味を理解する気はないんですけど。
あたしは彼の表情から─―勿体ぶって大げさに動くわずかな表情筋のたわみから─―そんなメッセージをしかと受け取る。むかつく顔のあとには、ダイレクトに言葉が飛んできた。
「オレは休日出勤のあとにわざわざお前を車で迎えに行ったんだぞ? 時間がないからスーツのまま家にも帰らず、睡眠時間だって全然足りてねえのに、お前が『レ・ミゼラブル』を観たいっていうから。ネットでチケット取ってやったし、カプリチョーザで飯もおごったし。なんなの? なにが不満なの? 『レ・ミゼラブル』はつまんなかったよ。なんだよあの話は。全然ピンと来ねえよ。だいたいオレは『007 スカイフォール』が観たかったんだよ。なのに『レ・ミゼラブル』につき合ったんだぞ? 『007』観たい奴が『レ・ミゼラブル』を観せられるなんてけっこう辛いぜ? でもオレは文句も言わず観た。なのにいきなり“あたしはパンクだった”とかわめかれて、お前それどうしろって言うの? 頭おかしいんじゃないの?」
ほら来た!
あたしは思わず目を見開く。
いっつもこれだ。
あたしが感情を露わにすると、理路整然と自分がいかに正しいか、いい彼氏であるかを並べ立てて、最後にこう言うのだ。「頭おかしいんじゃないの?」。自分は世界一まともだって顔をして―─量販店で買ったスーツを着ていれば、誰でもまともな市民に見える!―─そしてこう言うのだ。
「頭おかしいんじゃないの?」
あたしはその一言に、大いに揺らぐ。そして怯える。
そうなのかも。あたし頭おかしいのかも。あたし変なのかも。
これでも昔は、「変わってるね」って言われることを、喜ぶような女の子だった。みんなと同じなのは我慢できないタチだった。“個性的”という言葉は勲章だった。その先に、未来は無限に広がっていると信じていた。
でもいまやあたしは、気まぐれで突飛な衝動を抑えこんで、取り澄ました顔で彼氏の横に立っている。地方新聞社に勤めてるなんて田舎じゃ優良物件だし、けっこうカッコいいし、いい人だし。そしてあたしは、もう二十八歳だ。
この二年、誰が見てもまともだと思うような外見に、あたしは少しずつ変わっていった。オノヨーコみたいに伸ばしっぱなしだった黒髪を、彼が「なんか禍々しいな」って言ったから、美容院に行って女子アナ風にカットしてもらった。古着のワンピースを着ていたら、訝しげにクンクン服の匂いを嗅いできて眉間にシワを寄せ、「ばーちゃんちの匂いがする」って言われたから、あたしはその服をモードオフ行きの紙袋に突っ込んだ。そしてトゥモローランドで売ってる上品でこぎれいな服を買うようになった。大学時代からあたしのトレードマークだったトニーラマのウエスタンブーツをクローゼットの奥深くにしまって、ペリーコのパンプスを履くようになった。そうして十代のころからこだわってきたファッションポリシーをかなぐり捨てて、あたしはどこに出しても恥ずかしくない、誰が見てもまともな女になろうとした。新聞記者の恋人─―ゆくゆくは新聞記者の奥さん―─にふさわしい、まともな人間になろうとした。
もう身の丈に合わないことはしなくなった。夢を見るのをやめ、堅実に生きようとした。親もうるさいし、あたしだって早く結婚したい。結婚して郊外の建売住宅を買って、二年以内に一人目の赤ちゃんを産むのだ。ママになった友達はみんな、「産むなら早く」ってそればっかり。だからなんとしても二十代のうちに産んでおきたい。十代の頃は誰かのお母さんになりたいなんて、一瞬たりとも思ったことなかったけど。子供を産むのは、なにもしなくても進級できる義務教育みたいなものかと思ってたけど。そうじゃないんだ。そうじゃなかったんだ。
ウエディングドレスが似合うようにしておかなきゃいけないから、あたしは一九九四年のウィノナ・ライダーに憧れるあまり、衝動的にベリーショートにしてしまう、なんて過ちはもうおかさない。昔はしょっちゅうそういうミスをして、男に見向きもされないハメになった。ああいう髪型は、本当に若くて、本物の美人じゃないと似合わないものだ―─もしくは六十歳を過ぎて、モテとかどうでもいい境地に達したおばさんか。
身の程を知るあたしは、この無難な顔立ちに似合う髪型をして、無難な服を着る。ティム・ガンのファッションチェックに倣って、年相応じゃない服は全部捨てた。思い出が染み付いたお気に入りの刺繍ワンピースも捨てた。クローゼットには、大人の女を美しく引き立てる十のアイテムさえあればいい。自分でも日和ってるってわかる。でも、タヴィちゃんだって二十八歳になったらこの気持ちをわかってくれるはず。あのタヴィ・ジェヴィンソンだって、二十八歳になったら……。
いつもなら、ケンカのあとはこんな展開だ。
彼に適当な言葉でなだめられると、帰り道にあるラブホテルに寄って、セックスして、そのあと送ってもらう。空中分解したままのケンカは、もやもやと胸のあたりにわだかまっているけれど、あたしは助手席で感情を押し込め、大人しくしている。夜を走る車の中、猛烈な孤独に襲われる。圧倒的なディスコミュニケーションを前に、為す術もない。この気持ちを、彼に伝わるような言葉で話すことは不可能で、ただただ持て余す。
それでいつも、あたしは家に帰ると、ミシンをかけるのだった。
母親がお嫁入りのときに持たされたジャノメミシン。およそ三十年、誰にも使われずに押入れに眠っていたもの。
あたしは彼に伝えきれなかった気持ちを、ミシンの直線縫いによって吐き出す。
ダダダダダダと物々しい音を立てながら、戦車が突進するように前へ前へと進む針先に意識を集中させる。手当たり次第にパッチワークして、いろんな色や柄が混じりあった一枚の布を作り出す。糸は荒々しくほつれ、ボロ布のように見える。というかこれは、布を接ぎ合わせただけのボロ布だ。運が良ければ百年後、柳宗悦の民芸運動みたいなのがまた起こったとき、偶然発見されて、それなりの価値を見出されるかもしれない。
〈ある田舎町の屋根裏部屋で発見されたパッチワーク。二十一世紀初頭のもの。当時二十八歳だった独身女性の手による、欲求不満の結晶体〉
そんな解説を付けられ、ガラスケースに展示されたりして。
でも最初に言ったように、この日のあたしは完全にキレていたのだ。
『レ・ミゼラブル』の映画でアン・ハサウェイが歌う『夢やぶれて』が頭の中をリピートし過ぎて、もう自分をコントロールすることができなくなっていた。歌につられて必要以上にみじめな気持ちでいっぱいのあたしは、ついに言ってやった。
「女はみんな結婚したがってると思って、人のこと見下すのいい加減やめてよ! たとえ結婚しても、そんな結婚、ただの欺瞞だから!」
そう、そんなこと、最初からわかっていたのだ。でも、無視してた。
だってあたしもう二十八歳だから。精神的な安定が必要な年だから。経済的にも一人で生きていくって無理だから。賢くならなきゃいけない年だから。二十五歳を過ぎてから恋人と別れるのは相当な痛手だから。田舎町に住むまともな二十八歳の女は、結婚して子供の一人でも産んで、郊外の建売住宅に住んで家事と子育てに勤しまなきゃいけないから。
あたしも、若いころは怖いもの知らずだった。
でも、希望に満ちていたあのころの夢は破れたのだ。
―─本当に?
『夢やぶれて』つながりで、今度は頭の中にスーザン・ボイルの声が聞こえた。彼女があの、「この人ヤバいんじゃない?」ってまわりの人を不安にさせるようなしゃべり方で、こう言っているのが聞こえた。
―─本当にそうかしら?
YouTubeで一億回以上再生されたという、あの有名な公開オーディションの様子。審査員の男に“How old are you?”と訊かれて、たしか彼女はこうこたえた。“I am forty seven.”
四十七歳!
その年齢にみんな失笑しながらも、彼女が第一小節を歌うやいなや、観客はその崇高ともいえる歌声に胸打たれ、総立ちになって喝采を送った。あたしはあの動画を何度も何度も再生しては毎回泣いた。あの感動的なシーンを見ると、怖いものなしでクソ生意気だった十代の自分が蘇って、あたしに勇気をくれるのだ。
あたしは完全に『レ・ミゼラブル』調で、彼に訴えかけた。
「あたしは、“こんなはずじゃなかった”って後悔しながら生きたくないの!」
夜八時、ショッピングモールの駐車場。
「夢が恥に変わるような思いは、味わいたくないの!」
そう言いながら、あたしは自分のシャツの袖を、ビリッと引きちぎった。
大人の女によく似合う、コンサバティブなブルーのストライプシャツ。
「こんなもの! こんなもの!」
あたしは引きちぎった袖を地面に叩きつけて、エナメルパンプスで踏みつけていた。
「あたしはもっと、パンチのある服が着たい! みんなが眉をひそめるような、思いっきり反抗的な服が着たい! 人をザワつかせるような、とんでもない服が着たい!」
「……はぁあ~?」
彼は困惑しつつ、迷惑そうに顔を歪ませる。
あたしは、ついに白状した。これまで誰にも話したことがなかった秘密を。
「あたしの夢は、ファッションデザイナーになることなの」
あたしはしゃがみ込んで、泣きながら言った。
そこからのあたしの人生は、およそ日本の片田舎に二十八歳になるまでくすぶっていたとは思えない展開をはじめる。
派遣の仕事を辞め、彼氏とも別れ、親に頼み込んで結婚資金に貯めてくれていた貯金をもらい、あたしは街を出た。
行き先は東京?
いや、ニューヨークだ。
あたしはパーソンズ美術大学に入学してファッションの勉強を一からやり、有名デザイナーの下にインターンとしてつき、そこからの数年をアシスタントとして過ごした。そして満を持して、『プロジェクト・ランウェイ』に応募ビデオを送る。切り裂いた布をミシンでパッチワークしたあのボロ布を手に、ビデオカメラに向かってプレゼンテーションする。
「ハーイ、ハイジ! ティム! あたしはファッションデザイナーになりたくて日本から来ました。この布は、あたしのシグネチャーです。あたしの気持ちを代弁してくれているの。田舎町でくすぶっていたときに感じた、怒りや悲しみを表現しているのよ。あたしはこの布を使って、とても美しいドレスを作ります。既存の価値観にはとらわれない美だから、それを美しいと思わない人もいるかもしれないわね。でも、これがあたしよ。あたしは今年三十四歳になります。デザインの勉強をはじめたのが遅かったから、キャリアがあるわけではないけれど、でも心配はしていません。あたしは自分の可能性にワクワクしています。どうもありがとう! いいお返事を期待しているわ。バーイ」
カメラの前、考えていたセリフを英語で話し終えると、ふと気づいた。
―─あたしは今年三十四歳になります。
三十四歳。
それがあまりにも若いので、あたしはビデオカメラの前でつい、にやにやした。