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忘れられない恋を誰かに語りたくなることがありませんか? その相手にバー店主は時々選ばれるようです。バー店主がカウンターで語られた恋を書き留めた小説『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』より、今週のお話。

*   *   *

渋谷にも少し冷たい風が吹く十一月。恋人たちは腕の組み方が強くなり、一人で歩く人はぬくもりが恋しい季節になってきた。こんな夜は暖かい気持ちになる恋の歌が聞きたくなる。

『恋に落ちた時』というスタンダード曲がある。「たぶん僕は古くて過去の人間なのだろう」という言葉から始まり、「君も同じ思いでいると感じた時が、僕が君と恋に落ちる時」でしめくくられるロマンティックな歌だ。

そのレコードをかけていると七十を少しこえたくらいの男性が店の扉を開けた。

深緑色のコーデュロイのジャケットを着て中は白いシャツ、銀縁の品のいいメガネをかけたお洒落な紳士だ。

私が「どうぞ」とカウンターの端の席をすすめると、男性はうなずいて座った。

「お飲み物はどうされますか?」と聞くと、男性はこう答えた。

「さっきまで孫たちに渋谷を連れ回されました。映画を観た後洋食を食べまして、おなかがいっぱいになってしまったのですが、最後に何か一杯と思ってこちらに立ち寄ったのです。こんな私に何かいいお酒はありますかね」

「もうおなかがいっぱいだけど、少しだけお酒を流し込みたいという時ありますね。私でしたらそういう時は薬草酒を飲みますがいかがでしょうか?」

「薬草酒ですか。それはどういったお酒なんでしょうか」

「ヨーロッパでは自宅で蒸留酒にハーブやスパイスをつけこんで飲むという習慣があります。それにお湯をたしてホットドリンクにして、風邪を引きそうな寒い日に身体を温めたりもします。

修道僧がそんな薬草を漬け込んだリキュールを作るということもありまして、例えばこのシャルトリューズ、フランスの山奥の修道院で作られていて、ブランデーをベースに百三十種類にのぼるハーブやスパイスを使用しています。甘さもあるので食後酒としても最適ですよ。三島由紀夫もよく食後に飲んでいたと先輩のバーテンダーから聞いたことがあります」

男性は「ではそれをいただきます」と言った。

細身のリキュールグラスにシャルトリューズを注ぎ、男性の前に出すと、彼は香りを嗅ぎ、少しだけ口にふくみこう言った。

「ああ、ちょっと度数が強いですがハーブの香りもしてこれはおいしいです。食後に良いお酒を教えていただけました。ありがとうございます」

「お孫さんたちと観たのはどんな映画だったんですか?」

「恋愛映画でした。私はある昭和の女優が目的だったのですが、主人公のお婆さんの役で自分の年を感じました。私の孫は中学生と高校生の女の子だから、映画の後の食事の時も、ずっと二人がその映画の恋愛について語り合っていて。ああ、二人はこれからたくさんの恋愛をするんだろうなあって思いました」

「そうですね。その年頃でしたら、恋に恋する時ですよね。お客様はその映画はどうでしたか?」

「私ですか。やっぱり恋はいいものですね。人が誰かと出会って好きになるってある意味奇跡ですからね」

「あの、何かありましたか?」

「あはは、なんだか年甲斐もないことを言ってしまいましたね。でもマスター、私も恋をしたんです」

「え。最近ですか? もし良ければその話を教えていただけますか」

「先日、修理に出した時計がなおったと連絡があったので、東急本店に行くことになりました。妻がついでにお茶も買ってきてというので、時計を五階で受け取った後、地下に向かいました。妻はお茶はもうそのお店と決めているんです。

エスカレーターを降りていつものお茶売場の方に行くと、たぶん六十代半ばくらいなのではという印象の今まで見たことのない女性店員がいました。

彼女は、和服で色白で、黒くて長い髪を後ろでまとめていて、大きな瞳で私のほうをちらりと見ました。

私は、彼女の人の心を虜にする圧倒的な美しさについ見とれてしまいました。

その女性は、若い頃からそういう男性の視線には慣れているのでしょう。優しい微笑を見せながら、手元の急須を持って、小さい湯呑みにお茶を注いで、私に『どうぞお試しください』と差し出しました。

私は最初は差し出された湯呑みが何のことなのかわからず戸惑ってしまいましたが、しばらくすると、『試飲のお茶だ』ということに気づきました。おそらく私は顔も真っ赤だったことでしょう、彼女の目も見られず、『あ、いただきます』と言ってその湯呑みを受け取りました。

恥ずかしくて恥ずかしくて頭の中が真っ白になってしまって何も言えません。

彼女が『どうですか?』とたずねました。

私は、彼女が何を言ってるのかが理解できません。

彼女がニコッと微笑みながら、もう一度『お茶のお味はいかがですか?』と言いました。

私は、ハッと気がついて『あ、おいしいです』と一言だけ答えました。

またしばらくの間、無言の時間が流れました。たぶん時間にして五秒くらいだったと思うのですが、すごく長い時間が流れたように思いました。女性はうつむいていて優しく微笑み、私はずっと手元の湯呑みを見ています。

『以前からこちらで働いていらっしゃいましたか?』私はようやくこう切り出しました。

『いえ。以前こちらの本社の社員でして、人手が足りないということで今日だけ手伝いに来たんです』

『そうですか』

『はい』

『今日だけなんですね』

『はい』

『あの』

『はい?』

『お茶を買いに来ました』

『そのようですね』

私たちは笑いました。

やっと店員とお客という本来の関係に戻ったのですが、彼女は完全に私の『恋心』に気がついていたように思います。

マスター、これは私の自惚れなのかもしれませんが、彼女も少なからず私に好感を持っていたのではないかと思いました。私も彼女の心が感じ取れたんです。

彼女にお茶を包んでもらっている間、私は彼女を見つめ続けました。たぶん会うのは最初で最後だろうと思いました。

彼女からお茶の包みを受け取る時、少しだけ手が触れました。私はもちろん心臓が止まりそうなほど驚いたのですが、彼女も急いで手を引っ込めました。

私は『どうも』と頭を下げて、お茶売場を去りました。上りのエスカレーターに乗り、どうしてこんな場所でこんな瞬間に出会ってしまったんだろうと思いました。……話はそれだけです」

バーではナット・キング・コールが「たぶん僕は古くて過去の人間なのだろう。君も同じ思いでいると感じた時が、僕が君と恋に落ちる時」と歌い続けていた。

*   *   *

続きは、『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』をご覧ください。

関連書籍

林伸次『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』

誰かを強く思った気持ちは、あの時たしかに存在したのに、いつか消えてしまう――。燃え上がった関係が次第に冷め、恋の秋がやってきたと嘆く女性。一年間だけと決めた不倫の恋。女優の卵を好きになった高校時代の届かない恋。学生時代はモテた女性の後悔。何も始まらないまま終わった恋。バーカウンターで語られる、切なさ溢れる恋物語。

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恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる

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林伸次

1969年徳島県生まれ。レコード屋、ブラジル料理屋、バー勤務を経て、1997年にbar bossaをオープンする。2001年、ネット上でBOSSA RECORDをオープン。選曲CD、CDライナー執筆多数。著書に『バーのマスターはなぜネクタイをしているのか』『バーのマスターは、「おかわり」をすすめない』(ともにDU BOOKS)、『ワイングラスの向こう側』(KADOKAWA)、『大人の条件』『結局、人の悩みは人間関係』(ともに産業編集センター)、『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』(幻冬舎)などがある。

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