明日5月1日に、約200年ぶりとなる天皇の「譲位」が行なわれます。
徳仁新天皇は即位にあたって何を告げ知らせるのでしょう?
わかりやすいようで、実は、奥が深い天皇の言葉。
辻田真佐憲さんの『天皇のお言葉~明治・大正・昭和・天皇~』によると、天皇の言葉を読み解くキーワードは、〈時代的〉〈超時代的〉〈人格的〉〈超人格的〉の4つだといいます。
新帝即位と教養としての「お言葉」
われわれはいま、新帝即位の盛典を迎えようとしている。あまたの王室や帝室が倒れてひさしいこの世界にあって、なかなか出会えぬ稀有な機会といわなければならない。しかも本邦にあって、約二〇〇年ぶりの譲位なのである。
明仁天皇は、譲位にあたってなにを言い残すのか。徳仁新天皇は、即位にあたってなにを告げ知らせるのか。その「お言葉」の一言一句に、ひとびとの耳目が集まるだろう。そしてあちこちで、かならずや解説や解釈が百花繚乱と咲き乱れるだろう。その賑やかなること、いまから推して知るべしだ。
だけれども、天皇の「お言葉」はわかりやすいようで、奥が深い。何気ない言葉づかいがそれまでの歴史と響き合っていたり、なんのことはない一節がさまざまな調整や折衝の結果だったりする。
二〇一六年のビデオメッセージ「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」にしても、天皇の行為をめぐる既存の議論(第六章参照)などを踏まえておかなければ、十分に理解しにくいものだった。長い歴史を誇る皇室だけに、われわれの側にも準備運動が求められている。基礎的な知識を欠けば、どのような論議も、イデオロギー的な対立図式のなかで虚しく空回りせざるをえない。これは今日的な病弊だ。
では、一時的なお祭り騒ぎに惑わされず、「お言葉」について冷静に考え、理解するにはどうすればよいだろうか。現代日本と密接に連なっている、明治・大正・昭和・平成の歴史を振り返りつつ、そのときどきのおもだった「お言葉」を教養として押さえておくこと、これにしくはない。そして本書の狙いも、まさにここにある。
ここで「お言葉」とは、公式の詔勅から私生活での発言まで幅広く含んでいる。明治天皇であれば、「五箇条の御誓文」や「軍人勅諭」「教育勅語」だけではなく、京都弁の叱責や苦言までも視野に入れている。
天皇はロボットではない。日常の我意を知ってこそ、かえって戦時下の超人的な忍耐も際立つのであり、戦争回避の本音を知ってこそ、「民を苦しめたくない」という表向きの発言も生々しく迫ってくる。過剰な美化も、過剰な蔑視も、「お言葉」を理解する上では妨げでしかない。
昭和天皇についても、まったく同じことがあてはまる。軍国主義者、平和主義者、専制君主、たんなるお飾り──。さまざまなレッテルが貼られ、毀誉褒貶(きよほうへん)かまびすしいものの、その「お言葉」はどれくらい知られているだろうか。
昭和天皇は、戦前・戦中、軍部を止めたかと思えば、軍事行動を追認し、戦勝にニコニコ笑ったかと思えば、敗退に焦って決戦を求めた(第四章参照)。そして占領下、マッカーサーに共産主義の危険性を説いたかと思えば、吉田茂に海外領土の喪失を嘆いた(第五章参照)。それはまるでジェットコースターのように、上下左右に揺れ動いた。
有名な「大東亜戦争終結に関する詔書」(玉音放送)も、「新日本建設に関する詔書」(人間宣言)も、この激しい揺れのなかにおいて、はじめてその意義を正しく理解できるのである。
もちろん、天皇同士の関係性も大切だ。昭和天皇の気負いには、大正天皇の発病が関係しているし、今上天皇の平和への思いには、昭和天皇の戦時下の言動が関係している。「お言葉」には、みえない参照の糸が飛び交っている。本書では、この点にもできるだけ注意を払った。
あらためて強調するまでもなく、このような「お言葉」は、ひとびとの運命を動かし、時代を大きく左右したものだった。それは、近現代の歴史を知る上で最高のテキストであり、至高のメディアなのだ。「お言葉」だけで一五〇年の歴史をたどれるといっても、けっして過言ではない。
そのため、現在では存在が疑問視されている「お言葉」についても、注記しつつ、できるだけ触れるように心がけた。というのも、そのような神話や議論自体が、「お言葉」の存在感を物語ってあまりあるからである。
「お言葉」を読み解く四つのキーワード
「お言葉」の読み解き方は、究極的には読者に委ねられている。本書についても、思い入れのある天皇の章から読んでいただいて構わない。ただ、読み進める上で手がかりとなるキーワードを最初にあげておきたい。それは、〈時代的〉〈超時代的〉〈人格的〉〈超人格的〉の四つだ。
まず、〈時代的〉とは、その時代の動向に寄り添う性質のことである。天皇の権威は常に絶対ではない。時代に反する「お言葉」は容赦なく無視される。そして無視されれば権威が傷つき、皇位の存続が危うくなる。カリスマ性があるとされる、あの明治天皇や昭和天皇でさえその例に漏れなかった。そのため「お言葉」は、時代の動向(帝国主義や軍国主義など)に寄り添わざるをえない。
つぎに、〈超時代的〉とは、普遍的な価値観に配慮する性質のことである。皇統は、神話を含めると今日で二六〇〇年以上の歴史を有する。この伝統を守るためには、そのときどきで倒れるかもしれない目前の価値観に寄り添ってばかりではいられない。したがって「お言葉」は、超時代的な、つまり普遍的な価値観(平和や人類の福祉など)にも配慮しなければならない。
第三に、〈人格的〉とは、ひとりの人間と不可分な性質のことである。天皇といっても、生物学的にはひとりの人間にすぎない。「お言葉」もその人間から発せられる以上、私的な意志もあれば、趣味嗜好にかんするものも存在する。「お言葉」が、ときに激しく感情を揺さぶるのも、そこに常にひとりの人間の表情や感情やドラマが関連しているからにほかならない。
第四に、〈超人格的〉とは、集団の影響をまぬかれない性質のことである。「お言葉」の多くは、政府や官僚機構などの集団によって起草され、修正され、確定される。たとえ突発的に口頭で発せられるものであっても、そこには側近の助言や帝王教育の影響がみて取れる。「お言葉」は、常に集団的な合作の性格を帯び、ひとりの人格を超えざるをえない。
つまり、天皇の「お言葉」は、〈時代的〉でありながら〈超時代的〉であり、〈人格的〉でありながら〈超人格的〉でもある、矛盾と緊張感のなかで日々生成されている。だからこそ、空理空論に陥らないが、清廉潔白でもない。よくも悪くも、〈地に足の着いた理想主義〉が「お言葉」の特徴なのである。ふしぎな魅力の根源もまさにこの点にあるのではないだろうか(逆に、この特徴を押さえなければ、一面的な肯定や否定に陥る恐れがある)。
前口上が長くなった。「お言葉」の歴史は、「お言葉」そのものに語らせなければならない。それでは、明治・大正・昭和・平成の種々の「お言葉」にしばし耳を傾けてみることにしよう。
(辻田真佐憲『天皇のお言葉~明治・大正・昭和・平成~』「はじめに」を抜粋)
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